パラノイド・パラノイア

素直な悪女

意識が現在に戻ってきた。
シャワーを止めて、髪と身体をざっと洗う。
お風呂から出て身体を拭いたら、簡単スキンケアをして髪を乾かした。寝巻きに着替えて、いつもだったらテレビ番組かスマホで映画でも見てから眠る。
今日は、どうしてもそんな気が起きなかった。
昨日、ポストに入っていたあの手紙をどれほど見ていたのだろうか。寒さに指先がかじかんでいるのに気づいて腕時計を見れば、日付けをまたごうとしている時間だった。
大慌てで暖房器具をつけてお風呂の用意をする。風邪でも引いたらたまったもんじゃない。
幸いにも次の日に具合が悪くなるようなことはなく、午後には意を決して母に電話もできた。口うるさくて、時代劇や大河ドラマ影響をよく受けてしまう人だけど、私を心配してくれているだけなのだ。言葉の節々からそれを感じて、来週辺りに里帰りでもしようと思った。
あのメモ用紙は捨てず、チェストの引き出しにしまっておいた。何かあったら証拠になるんじゃないか、とか思ったわけじゃない。
私が、書いてあった言葉通りの人間だと認めているからだ。破って捨ててしまえば気は楽になるだろう。でもそれは逃避だ。生き返らせることはできないのだから、せめて自分のしたことから目を背けずにいよう。
そこまで考えてから、ふと気がついた。
私の過去を知っている誰かが、近所にいる──?
私は髪を梳かす手を止め、引き出しを開けた。白いメモ用紙は四角く折りたたんでから奥にしまってある。通帳やクレジットカードの明細書を掻き分け、その場でもう一度手紙を開いた。
変わらず印字されていて、手がかりになりそうなものは全くない。元通りにしてから、引き出しを閉めてテレビをつけた。

「──どれだけ忘れようとしても無理でした。寝ても覚めても、彼女の顔が頭から離れないんです」

俳優の悲痛な叫びが、部屋全体の温度を下げたような気がした。サスペンスドラマのクライマックスシーンのようで、犯人役の男が、自分を追い詰めた刑事に崖の上で告解している。

「……楽になりましょう」

刑事役の女性が、やわらかくも淡々とした調子で犯人を諭した。苦悩に膝をつき両手で顔を覆う彼の肩を、しゃがんで抱いてやっている。
チャンネルを変えてニュース番組にした。どこかの国の首相とどこかの国の大統領が会談を行った、世界に与える影響はどんなものかについて討論をしていたようだが、もう終わって次のコーナーへと移った。

「家族にも友人にも言えなかった。当時は何をされていたのかも理解できなかった。ただ人に言ってはいけないような雰囲気だった……」

無理に作ったデスボイスのような声と、黒い長袖のシャツを着た男性の後ろ姿が映し出される。
テロップに、〝見えにくい男性の被害〟と表示された。リモコンを操作して、テレビの電源を切る。

「やっぱりスマホだよね」

わざと明るい口調で言ってみる。微かに震える手でアプリを起動して、お気に入りのバラエティ番組が更新されてないかチェックする。

「やった。更新されてる!」

人気芸人が出てくる三十分ほどの旅番組は、今週は海の近くでロケをしたらしい。さっそく再生して、その賑やかさとテンションの高さに没頭する。髪を梳かすのは忘れない。
引き出しの奥にしまった手紙は、すっかり忘れてしまっていた。



「おはようございます、課長」
「おはよう、橋立さん」

何でもない顔をして出勤して、仕事の準備をする。いつも通りの週明けだ。それがなんだか、妙に騒ついているような感じがする。騒ついているというか、落ち着きがなくて浮き足打っているような……?
表情に出ていたのだろう。課長は手招きをすると、私を給湯室まで連れていって説明してくれた。

「何か事件でも起きたんですか?」
「事件というか……また親会社から無茶振りされそうなんだよ」
「え」
「いやまだ決まったわけじゃないんだけどね。ほら、うちって親会社と仲、悪いじゃない?」

課長は困ったように鼻の頭を掻いた。

「ああ……そういう噂は知ってます。でも意見が少し食い違ったりしたのを大袈裟に言われてるだけじゃ……」
「……それがそうでもないんだよ」

今度は耳の裏を掻いた。もったいぶった言い方に、私は少しイラついてくる。

「仲が良くないから、無茶な要求をしてくるんですか。いい大人が?」
「総務と営業から引き抜きたいって……」
「え」

うちの会社における総務と営業といえば、仕事ができる人たちが集まる二大部署である。それこそ、どこに転職してもやっていけるスキル持ちのオールスター勢揃いで、この部署があるからこそ我が社は存続してる、なんて冗談まじりに言われたりしている、あの。

「他の子会社からは……」
「そこはわからないし、まだ決まったわけじゃないから」

課長は顔の前で手を振ってみせた。それでも私の頭の中では陰謀論めいたシナリオが構築されていく。新島くんともう一人の親会社から来た女性は、引き抜く人材の品定めも仕事なのだろうか。いやそれならそれぞれを総務と営業に……待って、あからさま過ぎるから企画部に送ったとしたら。

「刺客……」
「物騒な言い方をするんじゃないよ。ほら、仕事の準備」

自分から言い出したくせに、課長はいかにもサボっている部下を追い立てるような言い方で私を給湯室から連れ出そうとした。なのに、身体を硬直させて逆戻りしてくる。

「課長?」

課長は口元に人差し指を立てる。“静かに”の合図に、私は困惑したまま従う。課長はその人差し指を廊下へと向けた。

「……ですから、今回のイベントに関しては……」
「SDGsの……一般客……」

複数人の足音と、聞き取りづらい話し声がすごいスピードで近づいてくる。
その全てが忙しなくて、給湯室の陰から覗いても見えるのは一瞬でしかない。
それでも新島くんと、隣りに並び立つ美女の姿ははっきりとわかった。

「……あの真ん中にいたのが、親会社から来た二人だよ」

彼らが廊下の突き当たりを曲がって姿が見えなくなってから、課長はこそこそと教えてくれた。聞き耳でもたてられているんですか、盗聴器でも仕掛けられているんですか。そう聞きたかったけど、ぐっと飲み込んで彼が話すに任せた。

「男のほうが新島さん、女のほうが黒川さん」
「……よくご存じですね」

噂話にご執心で仕事を放棄してませんか、という皮肉には辿りつかなかったらしく、何故か得意気な笑顔になって後頭部を掻いた。薄くなりかけてるのに余計に薄くなるぞ。

「まぁ、課長なんてやってるとね、色々聞かされるんだよ。嫌でもね」

……能天気というか、素直というか。
だから経理部で課長やれてるのかもしれない。唐突に思った。
この経理部はこの会社で一番人が少なくて、私が所属している一課しかない。実質“経理課”のような──いやもう正直、経理課と表立って呼んでいる人もいる。
昔々、パソコンが普及する前は二課や三課もあったらしい。パソコンが、というよりパソコンの会計ソフトが入ってきてから少しずつ縮小していった。
領収書とか伝票の計算がめちゃくちゃ楽になって、人はそこまで要らないな、と判断された。その結果が今の少数精鋭の状態なのだという。
しかし最近になってスキルの属人化が問題視され、新入社員なり中途採用なりを一人か二人入れるようにはしている──とは聞いたことがある。
兎にも角にも、窓際部署とまではいかないが、後々総務辺りに吸収されるんじゃないかと思われている部署。それが経理部だ。そこで課長をやらせようと思うなら、多少は鈍感でないとやっていけないのかもしれない。
腹の中で、本人には絶対に聞かせられない推察をしながら適当に相槌を打つ。

「じゃあ、あれですか。親会社の美女がイケメンを追っかけて……ってやつ、あれも──」
「ああ、あれね。親会社じゃ有名らしいよ」

課長は調子に乗ってペラペラと話す。さっきあんたが言ってた仕事はどうした、とは決して言わない。

「黒川さん、入社してすぐ新島さんに熱を上げていてね。今回のサポートも、新島さんが選ばれたのを知って自分から立候補したらしい」
「それはまた……情熱的ですね」
「彼女、常務の娘でね。仕事ができないってわけでもないし、まぁいいんじゃないって許可されたって」

私は例の美女を思い返す。一瞬だけ横切ったその人の横顔は、とても華やかだった気がする。まつ毛を始めとしたアイメイクはばっちり決まっていたし、上向きの鼻は強気な性格をしてそうだ。薄桃色のリップに彩られた唇からは自信が溢れ、見る人を惹きつけるオーラがあった。
SNSとかでインフルエンサーやってそう、というのが個人的な印象だった。

「いいな、新島さん。逆玉の輿で出世コースじゃないですか」

左うちわの生活が約束されてるんですね、とあっさり口から出てきた。涙声にはなっていない。それどころか、からかうような響きが含まれている。心臓がバクバクいったりもしていないし。むしろショックを受けていないのがショックだった。

「そう思うだろ? それがそうでもないんだよ」
「そうでもない?」
「むしろ迷惑そうにしてるって」

贅沢だよなぁ、あんな美女に迫られておいて。そうため息を吐く課長は続けて、まぁ好みの問題もあるしな、と一人で納得していた。
私はそれを聞いても、嬉しいと思えなかった。ただ、並んで帰ったあの日に見た横顔を思い出していた。どんな感情であんなことを言ったのか、きっと永遠の謎になるんだろう。

「ああ、駄目だ。ホントに仕事、仕事」

腕時計を確認した課長が慌て、今度こそ私たちは給湯室から経理部に戻った。



繁忙期でもない経理部は、いつものんびりした空気が漂う。これが総務とか営業だったらいついかなる時でも殺伐としている。気安く声なんてかけられたもんじゃない。用事があってどっちにも行ったことがある私や斉藤さんが証言しているんだから確かだ。
こっちに来る総務や営業の人もそうだ。しかめ面していっつも急いでいる。うちも繁忙期だとその雰囲気に合わせてさっさと対応できる。でも繁忙期ではない、普通の日は安穏とした空気を壊されるとフリーズしてしまいそうになるからなるべく来てほしくない。
向こうも経理部のだらけた空気(陰で本当にこう言っていた)に触れるとイライラしてしまうらしく、できれば行きたくないそうだ。そっか、両思いだね。
確かに場の空気ってやつは絶対な気がする。ピリついたところに居ればそれが当然になるし、その反対もそうだ。
特に上司とか、目上の人の影響は大きい。あの時もそうだったな、と幼稚園時代の記憶が引っ張り出された。

『せんせい、あそぼ』

もう顔も思い出せないあの教員に、そう声をかけたことがある。
新島くんの手を引く教員にねだったのは、もしかしたら新島くんと一緒に遊べるかもしれないと思ったからだ。彼を直接誘うのは恥ずかしいし、二人きりで遊ぶのはきっと照れてしまってきっと何もできない。でも先生と三人なら大丈夫──そんな幼い初恋からの行動だった。

『ごめんなぁ』

しかしそれは無惨に砕け散った。先生の、どこかねっとりした声──猫撫で声だったんだろうと今では思う──に、私の足は絡め取られて、ちっとも動かなくなってしまった。

『悠介を保健室に連れていかないと』

私の目に新島くんの足が映った。どこも怪我はない。大抵は他の男の子たちと外遊びをしているから、膝を擦りむいて保健室で手当てしてもらいに行っているのをよく見かけていた。

『また今度、ね』

その時の新島くんは、一体どんな表情をしていたんだろう。

「橋立さん」

肩がビクッと跳ねた。
振り仰げば、斉藤さんの驚いた顔が目に入る。私も似たような顔をしているんだろうな、と何となく思った。

「……そこまで急ぎではないし、そんなに根詰めなくても……」

仕事に集中し過ぎていると勘違いされたらしい。苦笑する彼女に私は引きつった笑いを浮かべ、話題を逸らそうと手にしている書類に言及した。

「あの、そちら庶務へのやつですか」
「ええ。他に庶務に持っていくもの、ありませんか」
「今は……大丈夫です。ありがとうございます」

うん。持っていってもらうような書類はなかったはずだ。仮にあったとしても、自分で持っていけばいいだけだし。
瞬時に判断して伝えると、斉藤さんは「ではちょっと行ってきます」と目礼して去っていった。その後ろ姿を見送ることなく、パソコンと睨めっこを再開しようとして、指が止まった。

『人殺し』

メモ用紙のような小さくて、飾り気のない紙。
癖のない、印刷された文字。
裏返して、ポーチから目薬を取り出して左右の目に垂らす。視界が滲むと同時に目頭をティッシュで押さえた。
足下にある小型のゴミ入れにティッシュを丸めて放り込み、メモ用紙を表に返した。

『人殺し』

ぐしゃりと潰す。そのままゴミ入れに放った。
パソコンの画面を確認する。ああ、これ仮払いから立替経費に変更になったんだっけ。レシートと領収書をもらわないと。
キーボードに指を這わせながら、帳票の作成についても考える。ファイリングや経費精算もしておかないと。給与計算と年末調整が。
頭の中をとにかく仕事でいっぱいにしなければ。
そう思うのに、心臓は全速力で走ったみたいにバクバクいって治らない。そこにタイミング悪く、企画部からメールが届いた。新島くんからだった。

──当社が開催するSDGsイベントへの協力をお願いいたします。

メールを流し読みすると、イベントやるけど人手が足りないから協力してほしい。強制はしない。自由参加だけどなるべく色んな部署から来てほしい。強制はしない。結構大掛かりなイベントだから人は多いほうがいいけど強制はしない……つまり強制的に各部署から数人ずつ派遣してほしいということだった。

(行きたいな)

会社に少しでも貢献を、とか殊勝な考えがあったんじゃない。何かに没頭して、過去の記憶から一時でも目を逸らしたかった。新島くんは参加しているだろうけど、直接話す機会はないだろうからきっと大丈夫。
課長は許してくれるだろうか。

「橋立さん」

今度は挙動不審にはならなかった。
メールから斉藤さんに視線を移す。細めのウェリントンタイプの眼鏡が、あまり化粧っ気のない顔に乗っかっている。その奥にある瞳からは、穏やかな光だけがある。こちらを訝しむような色は見えない。
良かった。動揺は悟られていない。

「お疲れ様です。もうお昼ですか」

私が腕時計を見ながら言うと、彼女は微笑んで頷いた。

「ええ。良ければ一緖にどうですか?」

駅前に新しくできたんですよ、と斉藤さんはスマホを取り出して見せてくれた。筆記体で書かれた店名は読めなかったが、イタリアンレストランらしい。

「私、支度するのでちょっと待っててくださいね」
「大丈夫ですよ。時間ありますし」

確かに昼休憩に入ったばかりだけど、お昼時で新しくできた店なら絶対に混みそうだ。出来る限り早く支度を済ませないと。
パソコンを閉じて引き出しに鍵をかける。最低限の支度だけして、斉藤さんと二人で課長に「お昼行ってきます」と声をかけた。



「それで、そこのお店行ったはいいんだけどすごい混んでてさ……」
「お昼はどこも混むわよ」
「食べられたんだけど結局ギリギリになっちゃって、斉藤さんと大急ぎで帰った」
「食べられただけ良かったじゃない」
「今度はうちで宅飲みしようって約束したよ」

母は私にお茶を出しながら苦笑した。しわが増えたなぁ、と思いながらテレビに目をやる。バラエティ番組は最近になって結婚した芸能人の特集をしていて、二人のプロフィールやプロポーズの言葉が面白おかしく紹介されていた。
この週末に帰ってきた私を、母は驚きながらも喜んで迎えてくれた。前に来た時とほとんど変わっていない。前がいつかなんて忘れてしまったけど。

「そういやさ、来週行ってくるよ」
「え、どこ? 結婚相談所?」
「新島くんとご飯」

母は笑顔を引っ込めて、私に探るような視線を向けた。テレビから聞こえてくる笑い声が、やたらと虚に響く。

「教えてくれる? あの日何があったのか」

私が来た時点で、聞いてくるんだって気づいていたでしょう。
言外に含めて母の両眼を見据える。目尻に深いしわができた彼女は、テーブルの上に腕を置き指を組んだ。

「……あの日のこと、どのくらい覚えてる?」
「あの日は……私……」

膝の上に置いた手が震える。口の中はからからに乾いて声がつっかえる。母の射抜くような目から顔を逸らしたくなる。
でも言わなきゃいけない。今の私がすべきことは、きっとそれだけしかない。

「石を……先生に、投げつけて」

殺した。
そう言おうとしたら母に止められた。

「そこを覚えちゃってるのね……その後は?」

私が首を横に振ると、母は目を伏せて何事か考えているようだった。それも少しの間で、すぐに私と目を合わせてきた。

「じゃあ、後のことから話すからね、いい?」
「うん、お願い」

母が話して聞かせてくれた話を、私はその一字一句に至るまで記憶しておいた。私がしでかしたことを、私は一生抱えて生きていく。その覚悟を決めてここに来たのだから。

あの後、あんたと新島くんが見つからないって騒ぎになってね。一人の先生が見つけた時には……あの、例の先生は亡くなってた。そこには微動だにしないあんたと新島くんがいて、新島くんは……その……服がね、そう……はだけてた。大きな石も近くに転がっていて、最初は事故じゃないかって先生たちは言ってくれた。
でも警察が色々と調べているうちに、石についていた指紋と、あんたの指紋が合致したって言われて……母さん、その場で倒れなかったのが奇跡だと思ったわ。
それ以外にも例の先生が新島くんに前々からしていたこととかがわかって……事が事だから、この件は事故として処理されて、先生たちと、うちと、新島くんちだけの秘密にしましょうって決めたの。
あんたはあの事件があってから、カウンセリングを受けさせてもしばらく塞ぎ込んでたけど……普通に生活できるようになって、母さん、本当に安心したわ。
でも、何というか……あんた、時々怯えるような顔をして……そこだけは気がかりだったけど、古傷をえぐるような真似はしたくなかったから、何も言わなかった。
……まさか、そこだけ覚えているとは思ってなかったわ。

母の長い告白が終わり、私は黙ってお茶をすすった。母も同じようにお茶を口して、ため息を吐いた。肩の荷が下りたような気分だったんだろう。これからは、私がそれを背負って生きていく。
だから。

「心配しないで、母さん」
「千鶴……」
「母さんは、私が全部忘れて普通に生きていってほしかったんだよね」
「そうね」
「でも、母さんが望むようには……もうできない」

ううん。“もう”じゃない。最初から、あの事件があった日からできなかった。

「新島くんとのことは、二人でちゃんと決めるよ」
「そう……そうね。二人とも、いい大人だものね」
「どんな結果になっても、私たちが納得する結果だから」

意識して口角を上げた。母も眉尻を下げる。二人してぎこちない笑顔を交わしたら、私は両手を合わせてわざと明るい声を出した。

「母さんの好きな時代劇の時間じゃない!」



個室の居酒屋というやつはどうにも緊張する。別に高級店ではないし、完全に遮音されているわけでもない。現に、あちこちからさざめきのような話し声や笑い声が聞こえてくる。
それでも緊張するのは、ひとえに相手が相手だからだ。

「橋立さん、何飲む?」

新島くんがメニューを先に見せてくれた。飲み放題の安いお酒から生ビールを選択する。

「新島さんもどうぞ」

いちいち店員さんを呼ばずに注文できるのはいいな、と思う。画面に表示されるボタンを触れば自動で注文が届く。楽な世の中だ。
このお店にはないけど、配膳ロボットが設置されているチェーン店だってある。そのうち調理ロボットや掃除ロボットが出てきて、こういう大衆向けの店は無人店になるんじゃないだろうか。
治安の悪い地域とかではまず無理だよな、と想像を想像を未来に飛ばしていたら、新島くんが怪訝な顔をして話しかけてきた。

「大丈夫? 疲れてる?」
「ううん、大丈夫」

私は反射的に首を横に振った。まさか日本の飲食業界の未来を想像していたなんて言えない。

「新島さんこそ大丈夫? 大変でしょ、イベント」
「皆のおかげで助かってるよ」

話題を変えようと、イベントについて聞いてみることにした。まだ話せないこともあるだろうけど、愚痴があるなら聞こうと思った。

「新島さん、親会社でも企画部だっけ」
「ああ、企画の……会社経営の企画」

さらっと言っているけど、とんでもないエリートではなかろうか。経営計画に関与している企画部ならおそらく一課だ。会社全体の方針やらなんやら考慮して策定していく、舵取りの役割。

「プロジェクトやイベントを担当しているもんだと……」
「もちろん、したことはあるけどね」

新島くんが苦笑した。くしゃっとした笑顔は幼少期から変わっていない。
……いけない、イベントにだけ集中しよう。

「突然すぎて大変だったでしょう?」
「びっくりはしたけど、繁忙期じゃなかったし……そこまで大変じゃなかったよ」

嘘だ、と思った。企画部に入ったことなんてないけど、繁忙期じゃないなら平気、なんて通用しないだろうことは予想がつく。
新島くんはなんでもない顔をしてる。でもあれかもしれない。社内の抗争に敗れて子会社に送られた……とか。

「あれね、副社長直々の命令」

失礼なことを考えていたら、新島くんはあっさりと言い放った。

「黒川さん……副社長の娘さんを勉強させたいから、サポートを頼むって」
「新島さんが先に選ばれたんじゃないんですか」
「逆だよ。黒川さんが選ばれて、俺にサポート役が回ってきたの」

噂って当てにならない。私はそれを今日ほど痛感したことはなかった。

「総務や営業から引き抜きされるって噂があるんですが……」
「色んな噂が出てるんだね」

そこに店員さんの「お待たせしましたー、生ビールになりまーす」というちょっと気の抜けた声が割って入ってきた。黄金色の液体と真っ白な泡の比率が美しい。
結露がテーブルに垂れる前に、手に取って新島くんと乾杯をした。カチャッとグラス同士が合わさる音が響く。口をつければ、柔い泡が鼻の下に触れてくすぐったい。緊張で乾いた喉はビールの苦味が潤した。

「はぁ〜……」

二人同時に力無く息を吐いて、顔を見合わせて、笑った。

「いや、マジでお疲れ様です」
「ほんっとやってらんねぇ……俺は別にスパイでもなんでもないってのに……」

片手で目元を覆う新島くんに、私はメニューを差し出した。

「好きなもの食べて飲みましょう。少しは気が紛れますよ」
「……もう橋立さんだけだ。こんなこと言えるの」

新島くんはメニューではなく私の手をつかんだ。振り払えるくらい弱々しい力。でも私はその手に自分の手を重ねた。

「大丈夫ですよ。私は新島さんの味方です」
「……そうだね。あの時も味方してくれた」

口調が幼くなった。可愛いな、と思ったのもつかの間、こちらを窺う目尻は赤く染まっていて、まさかもう酔いが回ってしまったのかと驚いた。
私も頬が熱くなって、目が潤む。呼吸も深くなって、喧騒がどんどんと遠くなる。思考が働かなくなって、ずっとこのままならいいのに、と願う。

「ちいちゃん」
「……初めてだよ、そんな呼ばれ方」
「嘘。友だちから、そう呼ばれてた」
「新島くんからは初めてだよ」
「二人きりの時はそう呼んでいい?」

新島くんの目は水の膜が張って、そこに暗めの照明が当たる。微かな輝きが胸に刺さり、埋まって、抜けなくなる。

「なら私も悠くんて呼ぶ」
「ん、いいよ」

幼稚園の頃に戻ってしまったみたいだ。いい歳して恥ずかしいと、私の中の良識が小言を漏らしたのは一瞬で、すぐに気にならなくなってしまった。
悠くんはさらに言葉を重ねる。

「次はね、俺の番」
「俺の番?」
「そう」

──ちいちゃんが困っていたら、何をしてでも一番に助けるよ。
そんな、今時の子どもでも言いそうにないことを真摯に言い切った。

「悠くん、私ね、悠くんにそう言ってもらえるだけで嬉しいよ」
「俺、本気だよ」

私が笑うと、「酒のせいだって思ってる?」と拗ねたように唇を尖らせた。それがまたおかしくて、私がますます笑いを深くすると、悠くんは私の手をパッと離してしまった。

「ふふ、ごめんごめん」
「……いいよ。口先だけなら何とでも言えるもんね」

そりゃ信用できないよなぁ、と頬をかく悠くんに、私は何も言わずビールを一口、二口胃へと流し込む。
悠くんこそ、私の「そう言ってもらえるだけで嬉しい」って気持ちを信じてくれない。頭の隅に、あの手紙というかメモは過ぎったけど、事実だし。実害を加えられたわけでもないし。
……我ながら危険な思考だ。まず、犯人はどうして私の過去を知っているのかがわからない。それに私の部屋を知ってる。そして会社のあれだ。
犯人は会社の人の可能性が高い。でもどうして今になって?
とりあえず家にある手紙は保管してあるから、警察には一応、相談に行こう。実績を作っておいて損はないと聞くし。

「ちいちゃん、メニュー」
「あ、ありがと」

すでに決めたらしい悠くんは、私にメニューを差し出してタッチパネルをいじり始めた。ここは定番の枝豆や唐揚げを頼んで、ナムルも追加しよう。じっくり悩むのは、一人で来た時だけでいい。

「決まった?」
「うん、貸して」
「いいよ、俺やるよ」

こういう場合ってどうすればいいのか、時々対応に困る。母さんとか、気の置けない友だちなら「じゃあ」って任せちゃうけど、悠くん相手だと「自分でやるよ」って言ったほうがいい気もしてくる。
私はコンマ何秒という時間で悩み、結局は悠くんに任せることにした。そこまで大量に頼むわけじゃないし、と自分に言い訳をしながら。

「それだけでいいの?」
「うん、今日は飲みたい気分」
「そっか、俺も」

そりゃあなたは飲まないとやってられないでしょうね、と勤め人として同情し、それならとことん付き合おうと仏心も出てきた。

「明日は休みだし、飲もう」
「うん、飲もう」

そう言って、また乾杯した。
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