財閥御曹司に仕掛けられたのは、甘すぎる罠でした。
「タオルは半分に折りたたんで、一組は洗面台の横に置くっと」

「シャワーの温度は42度。一般客室は40度だから、うっかり間違えないようにしないと」

 執事さんに怒涛の情報を叩きこまれた後、私は一人必死に清掃に勤しんでいた。
 ベッドメイキングのコツ、悠賀様のお気に入りのピローの位置、サイドテーブルとベッドの距離。
 寝室から水回り、クローゼットの中の細かい配置。

 他の客室と同様でも構わないらしいが、執事さんは悠賀様との長い付き合いから、こうした方がよいと判断し行っているらしい。
 実際、執事さんが清掃に入れないときは別のメイドに任せており、その時も悠賀様は特別何かを注文することはないらしい。
 
 けれど、私がここにいさせてもらうためには、執事さんに教えてもらった情報を有効活用しなくては。
 悠賀様に、完璧を超える清掃を見せなければ。
 
 昼飯を摂ることも忘れ、気が付けば外は暗くなっていた。
 55階の窓からは、藍色に染まった空と、ぽつぽつと明かりの灯る東京の街が見下ろせる。

「依恋さん、就業時間でございますよ」

 執事さんがいつの間にか現れて、私に告げる。

「あ、はいただいま!」

 慌てて清掃を終わらせて、用具を片付けた。

「お疲れ様でした」

 エレベーターホールで告げられる。
 ちょうど55階にやってきたエレベーターに乗り込むと、執事さんはこちらに頭を下げていた。
 私も慌てて会釈する。エレベーターの扉が閉じて行く。

 私は疲れた身体のまま、ぐっとこぶしを握り締めた。
 
 今日はあれから、悠賀様にはお会いしなかった。
 けれどこれから、毎日こうやって、悠賀様の過ごしやすいお部屋を作らなくては。
 私の居場所を、守るためにも。

 地上に降りていくエレベーターの中で、私は静かに誓いを立てた。

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