日給10万の結婚
 誰かに聞いてほしい気はするが、圭吾さんに『玲にキスされた挙句謝られました』とは流石に相談しづらい。相手もそんなこと言われても困るだろう。

 私は割り箸を手に取る。

「とりあえず玲が何考えてるのか分からないってことです」

「うーん、僕からすればバレバレなんですけどね」

「ええ? ああ、二人は幼馴染ですしね」

「さっきも言いましたが玲さんは分かりやすいですよ。んで結構不器用。喧嘩でもしたなら、舞香さんから話しかけてあげると、案外素直に耳を垂らして謝ってきますよ」

 喧嘩、とは呼べないのだが。それに私からどう話しかければいいのだろう。さっきのキスってさーどういう意味? だなんて、いくら私といえども聞きにくい。これでも女としての羞恥心は多少は持っている。

 蓋を開けて魚にかぶりつく。圭吾さんは綺麗な所作でお弁当を食べている。

「まあ、放っておいてもそのうち玲さんもちゃんとすると思いますよ。今は考えてるんじゃないですかね」

「ええ、考えてる?」

「色々と一人で、ぐるぐると。早く言ってしまえばいいものを無駄に悩んで、色々考えてるんだと思いますよ」

 何を悩む必要があるというんだろう。私は卵焼きを咀嚼しながら考える。人にキスしておいて、考えることとはいったい何か。

 だがそこで気が付く。もし、彼が私に好意を持っていてそうしたのなら、悩むことなんてないはずだ。つまりは、そうじゃなかった。

 勢い、ってやつか。

 私が相手に漏らしてしまった好きの気持ちを感じ取って、ついやっちまった、ってことだろうか。男にはこういう勢いというやつがあるらしい。女の私にはちっとも理解出来ないのだが、性別の差なので仕方がないのかもしれない。

 だから謝った。それで、付き合うつもりもないし単なるビジネスパートナーなので、どう私に説明しようか悩んでいる、ということか。

 そう考えると全てのつじつまが合うと思った。そして、ようやく理解出来たやつの脳内に絶望する。ぐんと気分が地の底まで落ちてしまって、卵焼きの味なんかこれっぽっちも分からなかった。

 ああ、確かに私が悪い。初めから雇われ妻だったのに、全然異性として見られてなくて一緒に寝ても何もされないぐらいのくせに、あんな男に思いを寄せてしまったのが悪い。

 あの人は元々、済む世界が違う人だ。

「舞香さん?」

 圭吾さんが顔を覗きこんでくる。私は慌てて泣きそうな顔を誤魔化すために水を飲む。そして平然な顔をしてご飯を頬張った。

「まあ、大丈夫です。私の方こそ悪かったと伝えておいて下さい。立場はちゃんと分かってます、って」

「え?」

「今日は帰ってこないかもしれないですね。私は気にしてないんですけどね」

 そんな強がりを言いながら、空腹感のないお腹にご飯を詰めた。味も何も分からず、ただ胃袋に重さが加わるだけの行為だった。

 大丈夫、大丈夫だから。

 私は三千万のためにここにいるんだから、ちゃんと頑張れる。まあ、手を握られたりキスをされたりしたのは一発ぐらい殴らせてもらってもいい気がするが、雇用主に暴力はいけないのでとりあえずは我慢しよう。

 圭吾さんが心配そうに私を見ていた。その視線に気が付かないフリをするのに必死だった。





 やはり、その日玲は帰ってこなかった。

 圭吾さんを見送り、一人で広い家で過ごして寝た。スマホにはメッセージの一つも入ってこなかったし、今頃あいつはどこで過ごしているんだろうか。まあ、本当の妻でもない私が知らなくてもいいことだ。

 そして翌日、圭吾さんを経由して『一週間の出張に出かけた』と聞かされ、落ち込むのを誤魔化せなかった。

 別に怒ってないし、今まで通り過ごす覚悟はできているのだから、玲も同じようにしてほしかった。変に距離を持たれる方がキツイ。

 でも電話を掛けてそれを喚き散らす覚悟もないので、一週間を静かに過ごすことに決めた。

 畑山さんのレッスン、伊集院さんの華道教室、あとは時々勇太と電話、自己学習。いつも通りの日々はあっという間に過ぎていく。

 玲が帰ってきたら、とにかく今まで通りの態度で過ごそう。そのイメージトレーニングだけは欠かさず行っていた。


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