日給10万の結婚
「いや、別に今更もういいから……じゃ」

「まさか本当に結婚してたなんて知らなかった。もしかして、俺に振られたやけで結婚受けたとか?」

 立ち去ろうとして、聞き捨てならないセリフが聞こえたのでつい足を止めた。顔を歪めて聞き返す。

「はあ? 何言ってんの?」

「だって、お前慎重派なのにスピード婚とかありえないって思って。それとも……もしかして、お前も被ってたの? だとしても、俺全然怒らないよ! もとはと言えば俺も悪いし」

 いら立ちで唇が震えた。私は声を荒げて言い返した。

「被ってるとかありえないから。あんたと一緒にしないでくれる?」

 強い口調になり、すれ違った人がこちらを見た。痴話げんかだとでも思われたのだろうか。私は和人に背を向けて、街中を歩き出す。だが奴はそのまま隣に並び、歩きながら付いてきた。

「ごめん、舞香はそんなことしないよな」

「絶対しないから」

「じゃあ、やっぱりヤケ? まあ、条件はいいよな。二階堂の御曹司」

「ヤケでもない。小学校の頃の同級生だから、全く知らない人ってわけじゃないの。もう話は終わりにして」

 苛立って早口で答えた。それでも、和人は引く気配がない。

「ごめん、舞香を怒らせたいわけじゃないんだ。ヤケになって結婚させたのなら申し訳ないと思って……同時に、それだけ俺を思ってたのかなあ、って思ったら嬉しくて」

 つい足を止めて、唖然とした顔で和人を見た。彼は優しくこちらに微笑みかける。ゾゾっと寒気が走った。

「……あの、私別れるときに言ったよね? あなたみたいな人はこっちからお断りだって。和人には全く未練もないし、思い出すことすらしなかったの。和人もあの子と幸せにやってるなら、もうそれでいいじゃん。お互いそれぞれ幸せでよかったね、おしまい」

「いや、本当の幸せって、俺たちが付き合ってた頃のことを言うのかな、って」

「……ちょっと何言ってるか分からない」

 私は早足で歩き出す。タクシーでも捕まえようと振り返るが、走ってくる様子は見られない。

「あー舞香、落ち着いて。お前がもう結婚してるのは分かってるし、幸せならそれでいいと思ってる。でもほら、結婚相手と恋愛相手は違うっていうだろ」

 そう言った彼は、私の腰に手を回してきた。寒気が走り、一瞬全身が硬直した。玲に初めてこうされたとき、あいつの手を摘まむ余裕があったが、本当に嫌な時は体は動かないものなのだと知った。痴漢にあったときって、こういう状態なんだろうか。

 和人はそのまま私をすぐそばの細い道に誘導しようとする。そっちはホテル街がある道なのに気が付き、慌ててその手を払った。そして相手が何をしたがっているのか感づき、急いでその場から離れる。

「舞香、待てって」

「いやマジで無理だから。こっち来ないで!」

「別に割り切って楽しめばいいって言ってるだけだって、深く考えなくても」

「いやいや頭どうなってんのよ!」

 ヒールで走るとあまりスピードが出ない。こういう時は着飾った格好じゃなく、全身三千円の方が動きやすいのだ。高級なファッションは走りにくい。

 近くに交番なかったっけ、と頭で考えて走っていると、突如手首を掴まれ、痛みで振り返る。完全に目が座ってしまっている和人がこちらを見ていて、あまりの恐ろしさに言葉も出なかった。和人って、こんな顔してたっけ?
< 131 / 169 >

この作品をシェア

pagetop