恋愛経験ゼロの御曹司様が札束で口説こうとしてきた
 ──恥ずかしながら文乃は、喫茶店で働くまで紅茶のことは全く詳しくなかった。

 初めて自分で淹れた紅茶の感想は、「色は綺麗だけど味がしない」。文乃が変な顔でティーカップに口を付ける様を、店主は笑って眺めていた。

 その後、空き時間を見付けてはティーセットの使い方からお湯の注ぎ方や蒸らす時間まで、懇切丁寧に教えてもらった結果──今ではコーヒーよりも紅茶を飲む機会が増えたように思う。

 茶葉の産地や茶摘みの時期による違いを調べたり、ティーバッグだけでなくリーフを購入してみたり、気分でミルクティーにしてみたり。家で母と一緒に紅茶を飲んで、これが忘れていた暮らしの「豊かさ」かと、文乃はしみじみ実感したものである。



 して、最近では文乃の淹れた紅茶も客に出せるようになったわけだが──今日は無駄に緊張してしまう。

 温めたティーカップに出来立てほやほやの紅茶を注ぐ間、痛いほど文乃の頬に刺さる視線。言わずもがな昴だ。

 彼がキラキラとした瞳で文乃を遠くから見詰めるものだから、何度となく手元が狂いそうになる。

「熱烈だねぇ」
「…………」

 店主の面白がるような呟きに、文乃は努めて心を無にした。

 最後の一滴まで注ぎ切ってから、カップを一拭き。ついでに袖口で自分の冷や汗も拭いつつ、文乃は昴のテーブルへと向かった。

「お待たせいたしました」
「ありがとうございます。……ダージリンですか?」
「ええ、シーズンティーのブレンドです」

 ふわりと漂ったフルーティーな香りで、昴は紅茶の種類が分かったらしい。きっと日頃からよく飲むのだろう。

 昴はゆっくりとティーカップに口をつけると、微かに口角を上げた。

「美味しいです」
「……。よ、よかったです」

 ほんのり目尻を緩めて笑った昴につい見惚れてしまってから、文乃は何とも辿々しい言葉を返す。

 そして彼が紅茶を飲む姿を図らずもじっくりと見届けてしまったことに気が付いて、慌ててカウンターへと舞い戻った。

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