唇から始まる、恋の予感
空港から直で会社に戻った部長は、社長に出張の報告をすると言って、社長室に向かった。
帰国してすぐに仕事なんかして、体調が心配だけど、急な出張だっただけに仕方がない。
報告だけ済ませたら退社するという部長は、退社後に待ち合わせをしようと言った。
浮足立つ私は、はやる心を抑えるのが大変で、喉が異常に乾いたり、訳もなく席を立ったりしていた。
就業時間が近づくにつれ、一分一秒経つのが遅く感じて少しいらだってしまう。就業のチャイムが鳴って片づけを始めると、就業から5分も経たないうちに席を立った。
会社の周りは夜も綺麗なライトアップで、デートには最適だけど部長と私が並んで歩いているところを見られでもしたら、大変な騒ぎになってしまうだろう。それに、私は前向きになったと言っても、まだまだ対人に対しての恐怖心が拭えたわけじゃない。いつ発作のスイッチが入ってしまうか、私にも分からないし何より、部長に迷惑を掛けたくない。

「車を用意するから、駐車場で待っていてくれるか?」
「分かりました」
「遅くなるかもしれないけど」
「大丈夫です。待ってますから」

そう約束した駐車場へ向かう。
今日は気温が低く、凄く寒かった。最近は夏に着ているキャミソールを下着にしてちょうどいいくらいの気温だったけれど、今日は立っているだけで足元からキンキンに冷えてくる。

「寒い……」

手をこすり合わせて見るけど、全然手は温かくならない。長引いている報告は、問題が大きかったせいもあるのだろうか。今日無理に待ち合わせをしなくてもいいと、言ってあげればよかった。
ガラガラとキャスターを転がす音が駐車場内に反響して、部長が来たと思ったとき、ちょうど部長の姿が見えた。

「ごめん、待たせたね」
「いいえ」
「初歩的なことなんだけど」
「はい?」
「最初に連絡先を交換しないか? 報告しながら気が気じゃなかったんだ」

本当に初歩的なことで、連絡先も知らずに私たちは付き合いだしているなんて、おかしい。
お互いにスマホを出して、連絡先を交換すると、私の一覧には唯一の他人が登録された。

「寒かっただろう? 手が赤い」
「大丈夫です……あ……」

部長が私の手を両手で包んで吐く息で温めてくれる。

「こんなに冷たくなって、ごめん。手袋は? 持ってないのか?」
「いいえ、持ってます。ここに……」

コートのポケットに手袋をいれていたのを、部長に言われるまで忘れていた。毎日付けているのに忘れているなんて、頭の中は部長のことでいっぱいだったんだ。


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