唇から始まる、恋の予感

揺れる想いが終わるとき

週明け、決心がついた私に、怖いものはなかった。まず、部長に返事をするのが礼儀だと思った。いままで受けた優しさを、私なりの誠意で返すつもりだ。それは過去を思い出さなくてはいけないという作業で、私にはとても辛いことだけど、私が唯一返すこの出来る誠意は、どうして食事ができないのか、どうして人と交わらないのかを伝えることだから。
決心はあっても、部長に近づくだけでも大変だった。特に用もないのに、部長のデスクまでは行けず、給湯室にいつ行くかと見張るわけにも行かず、タイミングを見計らっていたら昼の時間になってしまった。
いつも朝に昼食を買ってくるようで、ビジネスバッグと一緒にコンビニの袋がいつも下げている。
いつもならすぐに席を離れてしまう私だけど、今日はそういうわけにいかず、少しだけ時間をずらして様子を見た。
だけど、やっぱり部長も席をたつ素振りがなくて、午後まで待ってみようと、私は休憩に行った。次のチャンスなんてない。思い立った時がその時だから、今日言わないときっと私は部長に伝えられないだろう。
昼ごはんも緊張のせいか喉を通らなくて、お弁当を残してしまい、早々にデスクに戻ことにした。でもそこでチャンスはやって来た。
廊下で部長と出くわしたのだ。

「部長……お疲れ様です」
「お疲れ、昼は終わったのか? まだ時間があるけど」
「はい」
「じゃ……」
「部長」

私の横を通り過ぎるとき、本当の勇気を出して、部長を引き留めた。

「お話があります。就業後にリフレッシュコーナーに来ていただけませんか?」
「分かった」
「ありがとうございます。遅くなっても結構ですから、私のことは気になさらず、仕事が終わり次第お越しください」
「大丈夫だよ、待ってて」
「ありがとうございます」

うやむやなことをして、部長には本当に悪いことをしてしまった。まだ残っている休憩時間を使って、廊下の窓から外を眺めると、雲一つない秋晴れの空が広がっていた。

「綺麗な空」

窓から下を見ると、街路樹も徐々に色づき始めていた。景色を眺める余裕もないほど、忙しく生きて来たように思う。
心に余裕もなく、一日が早く終わることを願っていた毎日。なんだか勿体なかったと感じてしまうのはなぜなのだろう。
昼休みが終わってデスクに戻ると、川崎さんが昼寝をしていた。最近昼寝をしていることが多くて、少し心配。私は妹がいるけれど、川崎さんは弟みたいでいつも気になってしまう。家族以外で私が気になる人は川崎さんと……。

(部長……)

迷惑をかけたり、心配させてしまったりしたので当たり前だけど、それとはちょっと違う感情もある。
これからのことを考えると緊張してしまうけど、今は仕事に集中してミスをしないようにしなくては。
それでも落ち着かず、なんど席を立ってコーヒーを入れたり、しなくてもいい書類の整理をしてしまっていた。

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