俺様御曹司からは逃げられません!
(実際、私って絢人さんにとって何なんだろう。セフレ?本命ができるまでの繋ぎとか、かな……)
 
 本場仕込みのアメリカンイングリッシュがリビングに響く中、ふとそんな考えがよぎる。
 絢人は自分とは違う世界に生きる存在なのだという実感が、余計に楓の足元をぐらつかせた。
 
 彼と再会して、自ら彼の腕の中に飛び込んで、もう三ヶ月が経った。
 
 会って、体を重ねる。しかし、そこに愛の言葉はない。
 それ以上を求めることはあまりにも烏滸がましいことだと、分かっているつもりだった。
 
 それでもままならないことに楓の恋心は日に日に募っていって、彼の体だけでなく心も独占したいと、そう望まずにはいられなくなっていた。

(私、ちゃんとお別れできるのかな……)

 楓は彼の恋人ではない。ただ気まぐれに相手をしてもらっているだけ。だから別れはいつか必ず訪れる。
 その時はちゃんと笑って彼の手を離したい、そう頭では思っているのだけれど……。

 どんよりと湿ったため息が楓の口から漏れる。
 難儀な恋をしている自覚はあるが、退路は自ら絶ってしまっている。引き返すにはもう遅すぎた。

「楓」

 悶々と思い悩んでいたところで、ふとリビングから楓を呼ぶ声がした。
 ハッとして面をあげると、ビデオ会議を終えた絢人がソファにふんぞり返って手招きしている。
 
 不遜な態度を隠さない絢人だが、楓を呼ぶ声は甘く優しい。引力によって磁石が引き合うように、楓もまた否応なく引き寄せられていく。

 ソファに座る彼のそばに行くと、強引に手を引かれた。
 楓は彼の脚の間に腰を下ろす羽目になり、逞しい彼の腕で体をすっぽりと覆われる。

「食器洗いなら多恵子さんに任せておけばいいって言ったろ」
「いや、まあ……やることなかったですし……」

 多恵子さんとは絢人の家の家政婦さんだ。
 元々は絢人の幼少時の世話役で、楓の母と同年代の優しそうなご婦人である。
 一度だけ絢人に引き合わされたのだが、ド庶民の楓を白い目で見ることもなく、朗らかに挨拶をしてくれた。
 
 彼女は家事を全て完璧にこなすスーパー家政婦で、今日楓たちがお昼に食べた和定食も多恵子お手製である。
 
 絢人の言う通り、使い終えた食器も彼女が片付けてくれるのだろうが、主人の恋人ですらない余所者の楓の世話までお願いするのは流石に気が引けた。
 なので、今までも今日のように自分が使った食器は極力自分で片付けるようにしている。
 
 だがそれを言ったところで、常に人から傅かれてきた彼の理解は得られなさそうな気がして、楓は曖昧に微笑む。
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