恋愛期限
あなたでしたか。
 そのネイビーの車は、たった二日で私の目に馴染むようになってしまっていた。
 そう、昨日と今日、たった二日。
 たった二日で印象を残して――そして彼は、私の人生を大きく変えようとしている。
 その事実に、私は目が眩みそうになってしまっていた。
 幼い頃のあの他愛ない約束が、こんな形で今に繋がるなんて思ってもみなかった。
 でも、現実に今これは、起きている。
 私は車をすぐ前にして、一つ呼吸をした。
 ――確認しなければいけない事があった。彼に。
 今日はいつもの(とは言っても実際経験したのはまだ二回だけなんだけど)車を出ての直接の日向さんのお迎えはなかった。
 ただ、車は静かに停車して、私を待っているだけだった。
 店を出た時、このまま気付かれない様に逃げてしまおうかと、正直ほんの少しだけそんな考えが頭をかすめたけれど。
(――駄目)
 ここをないがしろにして、避けては駄目だ。
 それは多分、とても不誠実になる予感がしていた。 
 こんこん、と軽く後部座席の窓を二回ノックする。
 ゆらりと運転席にいた健斗君が倒していた椅子と一緒に起き上がるのが窓越しに見えた。
 後部座席に居ない彼は初めてで、新鮮な感じがした。
 そして何より、日向さんが、いない。車の中にいたのは健斗君一人だった。
 後部座席のドアの前に立っていた私に、健斗君は隣の助手席を親指で示して来る。
 いつもと違う雰囲気にまた少し緊張を走らせつつ、私は前方に移動して、指定された席のドアを開けた。
「……ど、どうも」
「はい、お疲れさん」
 私達の会話いつもこんな感じで始まってるなという気がした。
 車に乗り込んでドアを閉めると同時に、ごく普通に、当たり前みたいに健斗君が車を走らせ始める。
 特に何も話しかけて来なかったので、何だか間が持たず息苦しくなったのもあって、私から口を開いた。
「……日向さんは?」
 無難かつ、気になっていた事から話題に出してみる。
「今日、健斗君仕事忙しいって聞いてたけど」
 わざわざハードスケジュールの中、自分で迎えに来たのか。
 日向さんに任せずに?と暗に滲ませた私と、健斗君は視線を合わせようとはしなかった。
 まっすぐに前だけを見ている。
「あー、日向に回せる仕事全部回してきたから。あいつ別の仕事中」
 運転しながら健斗君がそんな発言をしてきた。
 また日向さんか。
 とてつもなく負担が大きそうにしか見えないけど、今朝の日向さんの話や様子から察するに、それが二人にとってバランスの取れた良い距離感なんだろうか。
「あの」
 私はそこで、切り出すことにした。
 一番話したくて、真実が知りたい事だった。
 ん-?とやっぱり目を合わせずに答えて来た健斗君に、問いかける。
「……何か、した?もしかして」
 言葉にしてしまった後で『した?』という表現の仕方は大間違いだった、と後悔した。
 これだとまるで災いをふりかけられたみたいだ。
 いや、災いというかとんでもない状況にこの人に追い込まれているのは確かなんだけど、でも今言いたいのはそういう事じゃなくて。
 正確に自分の思っている事を言葉に表現出来ない自分が、嫌になった。
 だけど健斗君の様子は特に変わらなかった。
「何かって?」
 何の事かピンと来ていない。
 私は慎重に、頭をフル回転させて言葉を続けた。
「今日、面接の電話があって」
 その一言で健斗君はああ、と私の言いたい事を理解した風だった。
(やっぱり)
 そうなんだ。
 ――予想が確信に変わった。
「今日だけで、三件も。しかもみんな結構、長時間勤務希望の人で」
 今日起こった事を一つ一つ、説明していく。
「それで?どうだった?」
 それはもう、私の質問を肯定した上での、もっと先の話をしていて。
「まだ、面接してないから決まった訳じゃないんだけど。でも、何も問題なかったらこのまま採用するから、だから」
 一呼吸置いて、私は続けた。
「――このままお店続けれるかもって、店長が」
 結論まで辿り着いた時にはもう、感情が溢れそうだった。
 そう、早朝の一件目の電話を取ったあの時には、本当にただのラッキーだと思っていた。
 でも、それから立て続けに二件もとなると誰だって分かる。
 偶然などではなく、何かが起こっていると。
「ありがとう」
 私はショルダーバッグの上でぎゅっと手を握り合わせて、頭を下げた。
 健斗君はちらりと私を見て、そしてどうでもいい事みたいにタネ明かしを始めた。
「別に礼言われる程の事はしてねーよ。職なんて探してる奴は探してるモンだし。たまたま縁が繋がってないだけなんて事ザラにあるから、ちょっとそういうの誰か周りにいないか探してみてくれって日向に電話入れただけ」
 ――なんて、簡単に言ってくれたけれど。
 その電話一本が、私達の運命を変えてくれたのだ。
「良かったじゃん。――働きたかったんだろ?あの店でこのまま」
 健斗君が唇にかすかな笑みを浮かべた。
 ――働ける。あの店でこのまま。これからも。
(働けるようになったんだ) 
 それ程の事じゃないと言われていたけれど、もう一度ありがとうと、私は呟いた。
 健斗君はやっぱりその私のお礼には何にも返事をしなかった。
 だけど、決して嫌な空気になった訳ではなくて。
「ちょっと寄り道。して行こーぜ」
 代わりに私に投げかけられたのは、そんな提案の一言だった。 
 
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