5回目のコール

5回目のコール 2話

次の朝、ベッドから起きあがった彼女は、思い切って赤いティーシャツに、学生の頃着ていた白いパーカーを箪笥から引っ張り出し、それを少しだらしなくはおり、入社してから初めてジーンズを履き、会社に出かけた。
秋にしてはちょっと寒かった。
そして会社に着くと、トイレに入ってしばらく鏡を見つめた彼女は、黒くて長い髪の毛をわざわざ後ろに思い切り縛り上げてニッコリ微笑んでみた。
その時の薫の下心は見えていた。
しかし、彼女のその思いはもう、ほとんど発作的なもので、そんな彼女は痴人の様だった。
その日、薫は3時の休憩時間が待ち遠しかった。
昼休み、彼女はわざと食堂を使わなかったのだ。
そのことで彼が自分にどんな思いを持つか試してみたかったのだ。
3時の休憩時間、こっそりと彼女が休憩室をのぞくとやっぱり彼はコーヒーを飲んでいた。彼は一人だった。彼女は静かに休憩室に入った。
「こんにちは」薫が思いっきりの笑顔で彼に声をかけた。
その時の岡崎の驚いた様子が薫は嬉しかった。
一瞬、岡崎は彼女が誰か分からなかった。
薫はその時、長い髪を後ろで結んでいた。ポニーテルだった。
昨日と髪型が変わっている。その髪の毛の結い目を少し上に向け、表情は幼く、というより、その表情は、若々しく輝いて観えた。
今度は彼女のその若さが、岡崎には印象的に映った。
「こんにちは、誰かと思った」彼がようやく答えた。
「ええ、3時の休憩時間に時々来てたんですけど、初めてお見掛けしますね」
彼女は嘘をついた。彼女は休憩室へ来たのは初めてだった。(彼女は時々嘘をついたが、彼女の場合、彼女自身それを嘘だと認識していないので性質が悪かった。)
「俺もよく来るんだ。ここのコーヒーは値段の割においしい、君もどうだい」
岡崎はいつものように、その安くておいしいコーヒーを握りながら彼女に言った。
「そうですか。私は最近入社したばかりだから知らなかった」そして彼女はなぜなのか彼の言うままに、その安くておいしいコーヒーを買ってしまった。
そして岡崎を見つめながら、おそるおそる一口飲んだ、というよりなめてみた。
その時、彼女はその安くておいしいコーヒーが、口の中に入った瞬間に、化学変化を起こして、彼女のその小さな口の中で爆発しそうな気分になってしまった。
そうなのだ、薫はコーヒーが苦手だったのだ。
だから喫茶店に入るとなるべくオレンジジュースか紅茶を注文するようにしている。しかしそんな薫を見つめ、岡崎はニッコリと優しく微笑んでいた。
そして薫は、残りのコーヒーが入ったカップを手にしたまま、ちょっぴりぎこちない心で彼を見つめながらも、たわいもない世間話をしながら、短い休憩時間をつぶして別れた。(彼女が残りのコーヒーをどうしたかは知らない。)
しかし岡崎はそんな薫が開きかけた清潔な白い薔薇の花の様に見え、その日、その美しい薔薇の花の匂いを嗅いだような気分で自席へ戻っていった。
薫の作戦は成功したようだった。
薫は満足だった、もうあとはこの男、「新進気鋭のプログラマー」に自分の人生を預けるだけだ。この賭けに私は勝つに違いない。そう、恋愛なんて単なる賭け、勝つか負けるか、二つに一つなのだ。そう表が出るか裏が出るか・・・。薫は思った。
彼女は微笑しながら自席へ戻った。
そして翌日だった。岡崎は昼休みに食堂を一回り見渡してみると、やはり一人でうどんを食べていた薫を見つけて声をかけたのだった。
「調子はどうだい?」、
「ええ、岡崎さん」そして彼女は彼に大きな薔薇の様な笑顔を見せた。薫は今日も昼休の食堂で、岡崎の声が自分に掛かるとふんでいた。そして食事が終わった二人はやはり休憩室にいた。そして何となく気にかける様な周りの目を少し気にしながらも、二人だけの短い逢引きを楽しんだ。
そして、その日以来それが二人の昼休みの毎日のデートコースとなったのだった。そして、ほとんど毎日の様に昼休みと3時の休憩時間に休憩室で、二人は社内デートを楽しむようになっていった。たまにそこへ総務部の加藤が、声を掛けることもあった。加藤は薫の部所のリーダーだ。
「薫ちゃん、例の書類のPDF編集は間に合うかい」
加藤がそう言いながら二人に近付くと、
「あ、加藤さん、もう少し待ってください」薫は笑顔を見せた。が、この彼女の笑顔を見ると、男はほとんど彼女を許せるだろう。  
「加藤、このまえの飲み会、おかげで助かった」岡崎と加藤は同期の友人でもあった。 時々それに開発の岡崎の友人、吉田が加わることもあり、話が更に盛り上がり、薫もニコニコ笑顔を見せ会話を楽しんでいた。
しかし本当は、薫は岡崎と二人でいたかった。
その日、岡崎が自席に戻ると二人の新入社員が、何か激しく議論をしていた。
二人とも一流大学を卒業し、将来の幹部候補と目されていた若手プログラマーだった。当然のことながら両者ともに大変プライドの高い人間で、普段から何かに付け、議論していたが、非常に仲の良い関係でもあった。
それ故か、議論しだすと二人とも簡単には引き下がろうとしない。
しかし話を聞いていると、今回は議論の内容が新入社員にありがちな無意味な議論だった。
岡崎は「俺には関係ない」そう思い、黙って坐りながら聞いていたが、二人は10分経ても議論を止めようとしない。
それはもうほとんど意地の張り合いに近く、偶然通りかかった美人、おんな人事部長の真知子が半分呆れかえって見ていた。
しばらくすると、課長が岡崎に向かい、さりげなく目で合図した。「仕方ない」、そう思った岡崎は、立ち上がり二人の中に割って入り、二人の納得するような答えを導き出すと、二人はようやく納得した。
数日後に人事異動の社内会議を控えていた人事部長、真知子は苦々しげに岡崎を見つめ、「なるほど、厄介な男だな・・・」そう思いながら消えていった。

ある日の休憩時間だった。岡崎と薫が休憩室で何時もの様に他愛のない世間話で話し込んでいた。岡崎はコーヒーを飲んでいたが、薫は飲んでいなかった。すると休憩時間の終了間際に人の居なくなった頃を見計らい、岡崎が遠慮勝ちに声を潜めて彼女に聞いてきたのだ。周りには誰もいなかった。
彼は薫の耳に顔を寄せて囁くように言った。
「薫、君、お酒はどうなんだ。そう、ワインなんか飲むの?」何時の頃からか彼は彼女をファーストネームで呼ぶようになっていた。彼女も声を潜めて答えた。周りには誰もいなかった。二人はまるで悪事をたくらむ犯罪者のようだった。
「あたしは結構いける口よ。ワインも大好き」彼女は岡崎の思いに気が付いていた。「素敵なバーがあるんだ。今度一緒に飲みに行ってみないか?」
「いいわね」薫は意味ありげに、少し妖し気な笑みを浮かべた。
そして約束の日、少し迷いながらも彼の言ったその店をススキノの一角に見つけた彼女は、先に一人でその店にはいり、カウンターで一人、ワインを飲み始めていた。約束の時間よりまだ少し早かったかもしれない。店は比較的すいていた。軽くジャズが流れていたが、薫にはそれが誰の曲か、だれが歌っているかは分からなかった。ワインを飲みながら彼女が待っていると、待ち合わせの6時に少し遅れて来た岡崎は、やや着古した黒のジャケットに、灰色のT―シャツ、黒のチノパンをはいていた。薫は胸の大きく開いた濃い目の赤のワンピース、男をその気にさせるスタイルだった。岡崎はそんな彼女の横に何も言わずに静かに腰を掛けると、ワインを頼み、ポケットから軽くタバコを取り出し、何も言わずに火を点けた。すると彼女は何も言わずにグラスに軽く口を付け、二人はそっと黙り込んだ・・・。そんな居心地の良い沈黙の中で静かに時が流れ、一瞬の秋が過ぎ、いつの間にか冬は来ていた。北風も強まり始め、気温も急激に下がり始めていた。が、岡崎と薫にとっては熱い一日が続いていた。窓から差し込む夕陽が、彼女の乱れた長い黒髪に輝いている。岡崎は薫を見つめて言った。「愛している・・・」その言葉は今までに2、3人の男が彼女を抱くたびに吐き出した言葉だった。しかし、今回のその彼の言葉は、彼女の体の中に激しい不思議な戦慄を呼び起こし、そして彼女は今までに感じたことのない、不思議な快楽の中に溺れていった。それが何故か、実は彼女自身が理解できていなかった。
ベッドの横では、彼の吸いかけの煙草の煙が、テーブルの上の灰皿から真っ直ぐに立ち上っていた。ベッドは激しく揺れ、美しく日が暮れかけていった。
 そしていつの間にか冬は過ぎ、札幌の街が緑に萌え、「YOSAKOI」に輝く6月が来た。「YOSAKOI」といえば、高知県の「よさこい祭り」をルーツとしたものが日本各所で行われている。札幌でも雪まつりと並ぶビッグイベントとの一つといってもいいだろう。緑の季節に「YOSAKOIソーラン祭り」が行われる。それは今や日本全国に、世界に通用するイベントかもしれない。その始まり、観客数20万人程度といった祭りだった。それが今では札幌市の人口とほぼ同じ約200万人の観客が集う祭りとなり「北海道の初夏の風物詩」となったのだ。
その祭りは「街は舞台だ」を合言葉に札幌の目抜き通り・大通り公園を中心とする市内各所を色とりどりの羽織やモンペを身にして、歌舞伎や日本舞踊や化け物の様に化粧をした踊り子たちがチームを組んで踊る。子供が多く可愛らしいチーム、若い男性が中心の力強いチーム、若い女性が中心の美しいチームなど、色んな形の鳴子を手に、ソーラン節のフレーズが入った曲をジャズやディスコやヒップホップ風にそれぞれのチームが独自にアレンジし、その曲に合わせてエネルギッシュに街中を躍動する。そしてそのあふれるエネルギーで街中が祭りの熱気に包まれるのだった。
最大で150人までのチームが札幌市内の25の会場を移動し、自分たちの創り上げた演舞を披露する。またチームの構成も様々で。最近では、国内はもとより、海外からの参加チームも多数見られる。
岡崎は「YOSAKOI」には、現在の会社を最初の社長が作ったときから、社員を集めて、毎年参加していたのだった。今年は薫も誘ってみようと思っていた。恐らく彼は、お断りの返事が来るものと期待していた。街中を化け物のような化粧をして、モンペ袴をはいて踊りまわるには、かなりの勇気と度胸がいるものだ。彼女はどちらかというと、奥手だと彼は思っていた。ところが彼女は言った、
「素敵じゃない」その大きな黒い瞳を輝かせた。そして化け物のような化粧をして、羽織をはおって、モンペをはいて、彼女は街中を踊ったのだった。岡崎は驚いたというより唖然として、そんな薫を見つめていた。そしてそんな二人の様子を一部始終、薄笑いを浮かべながら、面白そうに見つめていたのは真知子だった。
 いつの間にかまた、セミが鳴き始めていた。夏休みの近づいていた夏のある日の日曜日だった。薫は今度の夏休みに岡崎と二人きりで旅行に行けたらと思っていた。そんな薫を連れて、岡崎は二人でドライブに出かけていた。すると彼が何げなく言った。
「薫、今度の夏休みはどうする。二人でどこかに行こうか。どこがいい、京都なんかいいかもしれないな、暑いかな・・・」
薫は黙ったまま、握っていた岡崎の手を握りしめた。
薫は夏休みが待ち遠しくてたまらなかった。ところがそんな夏休み前のある日だった。休憩室は岡崎と薫の二人だけだった。そこへ加藤が入ってきた。加藤、この男は悪い男ではなかったが、デリカシーの欠片も持たない人間だった。そしてその彼がいったのだった。
「君たち、夏休みはどうするんだい?僕は夏休みは函館の実家に帰省するんだ。一緒にどうだい?函館なら案内するよ」
岡崎は加藤の突然のこの提案に驚いた。
「えっ・・・。かっ、かおる・・・、どうする・・・」岡崎は顔を赤らめながら、薫を振り向いた。
「・・・」薫はどこを見ていいか分からなかった。
「僕が途中で家に帰ることにすればそれでいいじゃないか」彼はしつこかった。
「えっ、ええ、そうだな」結局、加藤の粘りに、岡崎はあっさり折れてしまった。
「細かいことはいずれまた、打ち合わせよう」
そう言うと、加藤は納得して休憩室を出て行った。
薫は岡崎を睨み付けて言った、
「何なの、いじわる」
「なんだい、いやなら旅行はやめるかい?」
「いじわる」もう一度薫が言った。
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