別れの曲
 何度目かのレッスンの時。
 私の気持ちとしては、本当なら母に教えてもらいたいところだったのだけれど、当の本人がそれを強く拒んだ。
 理由は簡単。母が、人に教えるのには向いていないタイプだったからだ。
 母は『感覚派』の天才と言うのか、言葉や行動で、話して見せて教えることが、どうにも苦手なのである。
 それには自覚もあるようで、『ピアノが好きであればこそ、基礎からしっかり固めて、地道な成長を遂げて欲しい。正しい経験、知識といったものは、間違いなく未来の財産になるから。何かのプロになるか否かは、その実践の後でいい』それが、母の気持ちだった。

 そうして、いざレッスンが始まったは良いけれど、それはそれはつまらないものだった。
 ピアノには触らず、まずは基礎の基礎――音符や記号の読み書き練習から始まったからだ。
 必要なことだと頭では分かっていても、子どもなんて好きなことをやりたいと思うのが普通。私は、とにかくピアノを弾きたかった。弾く為の勉強がしたかったのだ。
 それが、これは何だそれは何だと、ずっと教本と睨めっこ――そう上手く進むこともなかった。

 でも――

「陽和ちゃん。これ、全部間違ってるわよ?」

 それは、簡単な楽譜の作成学習をしている時のことだった。
 先生にそう指摘された私は、一度全部消して書き直して、再提出した。直したそれは、私の目には、さっきのものと全く同じに映っていた。
 これでどうして間違っているのだろう。そう思いながらも、また先生に見せたところ、

「――また、全部。と言うか、さっきよりもぐちゃぐちゃよ?」

 そんな。どうして。あり得ない。
 慌てて取り返したそれをもう一度見やると、やっぱり合っている。筈だと思う。けれど、念の為また全部消して、一から書き直した。
 合っている筈だ。ちゃんと、習った通りに出来ている筈だ。どこも間違ってなんかいない。間違っているはずがない。
 そんなことを思いながら、また消して、書いて、消して、書いて……何度繰り返しても先生の答えは、

「…………違うわね。さっきと比べても、まったく」

 難しそうな表情で、首を横に振るばかり。

「そんな……」

 狼狽える私の様子を見かねてか、ちょっと待っててねとだけ言い残すと、先生は一度部屋を後にした。
 その間、私はまた、自分で何度も書き直した。やっぱり合っている。間違っていないはずだ。どうしてこれで間違っているんだろう。そう、疑問に思うばかり。
 程なくして戻って来た先生だったが、今日のレッスンはもう終わりだと言って教材をしまうと、代わりに「ゆっくりしてて」とお茶を差し出して来た。
 何のことか分からず、考えている内、それには一口もつけられないまま時間が過ぎて。

 数十分後、母が迎えに来た。
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