別れの曲

~3~

 現実でもピアノが弾けることを知ってから、早一週間が経過した。
 一度も急な眠気や寝落ちはおとずれなかったけれど、却って都合は良かった。
 心の在り方次第だと声が言っていたように、強く望まなければ、あの不思議な世界に落されることもないらしい。

 今までは、望まなくても眠気はやって来ていたのに。
 学校での他愛ない会話や、母との日常。夜中に見る夢は、そんな他愛のないものばかりが続いている。
 その間、私は次あの世界に行けた時の為に、必死になって知識を貪っていた。
 モーツァルト。シューマン。シューベルト。ショパン。ドビュッシー。リスト。
 あらゆる楽譜を、時間の許す限り読み込んだ。何度か吐き戻すこともあったけれど、それを耐えてでも成したいと思えることが、まだ漠然とではあるけれど、私の中に芽生え始めていたからだ。

 それと平行して、不思議なことも起き始めていた。

 読めない、吐気、嘔吐――そういった症状が、少しずつではあったけれども、確実に緩和していっているのだ。
 それに気が付いた頃には、読んだ楽譜のほんの一部分だけでも、正しい旋律として、頭の中に浮かぶようにもなっていた。
 楽譜を読めば読むほど、比例しているように。
 それは悪いことではなかった。寧ろ良いことだろうとも思う。
 学校に行けば佳乃に「楽しそうじゃん」と笑顔を向けられ、家に帰れば涼子さんに「最近生き生きしてるわね」と優しく言われる。
 今までの自分が他人にどう映っていたのか。
 それを確かめるようなことはしないけれども、私自身、誰よりもそれを鮮烈に感じ取っていた。

 楽しい。心の底から、そう思えて仕方がない。これが『充実している』ということなんだろうな。

 現実であの一曲が弾けて以来、未だあの世界には行けていないから、どれもまだこちらでは弾けない。弾こうと思って鍵盤に指を置いても、頭の中にイメージが沸かない。
 理屈は分からないけれど、こっちでインプットしたことは、むこうで咀嚼しないと現実には反映されないようだ。
 それでも、私は日々を楽しんで過ごしていた。あの部屋に入ることが、ピアノを目にすることが、楽譜を読むことが、どれも楽しくて仕方がない。

 そんな、ある日のことだった。
 土曜日の朝早く、スマホが震える音で目を覚ました。着信を知らせる振動パターンだ。
 重くて開かない瞼は放っておいて、手探りでスマホを手にする。きっと佳乃辺りだろう。

「もひもーひ……」

 気の抜けきった声で応える。

『あらあら、随分と眠そうな声ね。ふふっ。起こしちゃったかしら?』

 声の主は、佳乃よりもよくよく聞き覚えのある声だった。

「涼子さん⁉」

 私の脳は一気に覚醒した。
 今まで一度も、朝に電話がかかってきたことなんてなかった。スペアの鍵を渡してあって、私が目覚める頃には既に、家にあがって朝食の準備に取り掛かっているからだ。
 驚きながら、私は思わず顔から話した画面を見やる。そこには確かに『涼子さん』と表示されていた。

『おはよう、陽和ちゃん。元気?』

「お、おはよ、涼子さん。うん、元気だけど、珍しいね。何かあった?」

『ええ、それなんだけど。ごめんね、ちょっと体調が優れなくて、今日だけ大事を取らせていただこうかと思うわ。勿論、美那子さんの方にも後から連絡を入れるけれど——あ、別に身体の方は何ともないのよ、本当に、何もないわ』

 そう話す声は、いつもと違う。鼻声だし、くぐもっているようにも聞こえる。

「本当に?」

『え、ええ』

「涼子さん、自分の癖って知ってる? 涼子さんって、何か誤魔化そうとする時、決まって『何もない』って言うの」

「……はぁ。陽和ちゃんには、隠し事も出来ないわね」

 涼子さんは観念したように息を吐いた。

『ごめんなさい、そこそこ高熱がね。三十八度台だから、今日だけはお医者さんにかかって、様子を見ようかと思うの』

「三十八度台って、それで何もないって無理あるでしょ。鼻声だし、息も荒いよ」

『まったく、不甲斐ない話だわ。ごめんね、陽和ちゃん』

「いやいや、謝ることじゃないって。涼子さんはきっと働きすぎなんだよ。神様が『休め―!』って警鐘を鳴らしてるんだね」

『もう、何それ。ごめんね、今日は一人で――』

「大丈夫!」

 私は食い気味に声を張った。

「この間お母さんを見送ってくれた日だって、何とかなったんだし。こっちのことは良いから、ゆっくり休んで、しっかり治すこと! 数日くらい、どうってことないから。いい?」

 それに、涼子さんに甘えてばかりでも駄目だ。

『ふふっ。はーい、それじゃあお言葉に甘えて。朝からごめんなさいね。陽和ちゃんも、せっかくの日曜なんだし、しっかり身体を休めてね』

「うん、ありがとう。またね」

 答えると、少ししてからプツっと通話が切られた。
 程なくして切り替わった画面には、母と二人で映っている写真が表示される。母が初めて開催したソロコンサートの終演直後に撮ったものだ。

「懐かしいなぁ……」

 母はあの頃から、全くと言っていいくらい容姿が変わっていないけれど、私は十個以上も歳を取った。隣に並んでいる様が、何だか不思議に思える。

「――よしっ! やるか!」

 気合十分に頬を叩く。しかしてしっかりと痛みにひりつく頬を撫でながら、大丈夫かなと自問。
 これまで『家政婦』という仕事である涼子さんに、家のことは全て任せっきりだった。さっきはああ言ったけれど、この間は洗濯や掃除はする必要がなく、昼と夜の食事だって用意されていた。ともすれば、私は何もやっていないに等しい。
 かと言って、見栄を切ってしまった手前、今からかけなおして方法を尋ねる訳にもいかない。母への電話の第一声だって、決意表明と決めている。

「大丈夫。出来る出来る。私だって、もう十六なんだから」

 呪文のように言い聞かせると、私は意識を切り替えて、一つ一つ順に消化していく道筋を考え始める。休日と言えば尚更、やるべきことは山積している。
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