怜悧な御曹司は秘めた激情で政略花嫁に愛を刻む

1・私と結婚してください

 八月某日、都内でも老舗として名高い高級ホテルのラウンジ。
 窓の外に広がる快晴の空を見上げ、深いため息を漏らした神崎詩織は、視線を落とす。そうすることで、自身の身を包む友禅染の着物の袖が視界に入った。
 季節を考慮して清涼感のある若草色の生地に、流水、雲取り、扇など縁起がいいとされる構図に上品な花をあしらう着物は、職人技を感じさせる品だ。着物に合わせた帯や小物も、神崎テクノの社長令嬢として恥ずかしくない品を選んだつもりである。
 でもこうやって一人で見合い相手の到着を待っていると、なにか足りないものがないかと不安になってしまう。
 ――着物だと、大袈裟すぎたかな?
 ラウンジの外にあるホテルのフロントに視線を向けると、夏休みのためかカウンターは人が途切れることなく行き来している。ラウンジもほぼ満席状態だ。
 詩織は、家族と共に都内で暮らしているので、宿泊客としてこのホテルを利用をしたことはない。ただ併設されているレストランを利用したことはあり、その時の記憶として、人の流れが緩やかな落ち着いた場所と認識していた。
 だから先方にこのラウンジを指定された時は、大事な話をするにはちょうどいいと思ったのだけど、夏休みの今は勝手が違うらしい。
 様々な言語が飛び交う賑わいの中、若い女性の和装が珍しいのか、海外からの観光客とおぼしき人の中には、詩織にカメラを向けてくる者もいる。
 見合いと言えば着物。そんな固定観念で和装を選んだが、これは悪目立ちが過ぎる。
 今日の見合いに関して家族に意見をもとめられたのであれば、その辺も含めて適切なアドバイスをもらえたのかもしれないけど、生憎これは詩織一人で決めたことなのだ。
 せめて仲のいい友達にでも相談できればいいのだけど、まだ大学に通う年齢である詩織の友達は皆若く、見合い経験がある者がいないので相談のしようがない。
 そのためネットの情報を頼りに、縁起のいい柄の和装を選んだのだけど、和装自体が間違いだった気がしてきた。
「……」
 袖の柄を再度確認する詩織は、陰鬱な思いで再びため息を漏らした。
 まともな仲介者も立てず、家族の付き添いもない見合い。
 神崎テクノの社長令嬢として箱入り娘として育てられた身としては、かなり無茶苦茶なことをしている自覚はある。だけど家族を助けるために詩織ができることとしては、これくらいしか思い付かなかったのだから仕方がないではないか。
「……あれ?」
 落ち着かない思いで腕時計に視線を落とした詩織は、小さな声を漏らした。
 気が付けば時刻は待ち合わせ時間をとうに過ぎている。
 右手で左の袖を押さえてテーブルに伏せてあったスマホを手に取り画面を確認しても、今日の見合い相手である斎賀貴也からも、この見合いをセッティングしてくれた従兄の望月悠介からも何のメッセージも届いていない。
 相手は引く手数多のイケメン御曹司。
 いくら友人の紹介とはいえ、学生相手の見合いなどバカらしいと思ったのかもしれない。
「すっぽかされたのかな?」
 約束の時間を過ぎても相手が現れないということは、そういうことなのだろう。
 従兄で神崎テクノの社員でもある悠介が、件の御曹司と大学時代からの付き合いであることを知った詩織は、悠介に頼み込んで、半ば強引に彼の見合いをセッティングしてもらった。
 そうまでして挑んだお見合いなのに、すっぽかされたことに、心のどこかで安堵してしまう。
 とはいえ、喜んでもいられないのだけど。
「……」
 深いため息を吐いた詩織は、スマホで今日の株価を確認して、神崎テクノという銘柄の後に続く赤文字に下唇を噛む。
 昨日確認した時よりさらにマイナス幅ひろがった株価に、焦燥感が増す。
「お父さん……」
 詩織の父であり、神崎テクノの経営者である神崎篤もこの株価を目の当たりにしていると思うと、胸が苦しくなる。
「この先どうしたらいいのかな?」
 深くため息を吐く詩織は、無意味と知りつつ彼の名前を打ち込んでみる。
 SAIGA精機 斎賀貴也――と、入力してクリックすると、画面にはすぐに見目麗しい男性の顔が表示される。
 高層ビルの一室と思われる開放的な窓を背にソファーに腰掛ける彼は、長い四肢を持て余すように股を開き、肘掛けを利用して頬杖を突いている。
 少し癖のある髪をセンターで分けている彼は、形よく整えられた眉に、すっきりとした鼻筋、微笑を浮かべた薄い唇といった顔のパーツが、完璧と言っていいバランスで配置されていて人目を引く。
 ライトの加減か少し色素が薄く見える瞳には、妥協を知らない意思の強さが窺える。でもそれでいて、その切長の眼差しは、目尻が少しだけ下がっていて、切れ者が纏う特有の鋭さを中和させている。
 経済誌のインタビュー記事に添えられたから写真の彼は、ファッション雑誌の一ページとしても使えそうなクオリティだ。
 写真と共に掲載されている彼の簡単なプロフィールも、かなり華々しい。その情報によれば、彼は旧帝国大学の一つを主席で卒業後、SAIGA精機の御曹司として華々しいキャリアを歩んできたことが窺える。
 年齢は従兄の望月悠介と同い年とのことなので、二十歳の詩織より七つ上の二十七歳ということになる。
 若く美しく、商才に溢れた御曹司。その存在の全てが、完全無敵な王子様といった感じだ。
「こんな人が、私と結婚してくれるわけないよね……」
 見合いをすっぽかされたことで、急に冷静さを取り戻した詩織が呟く。
 家族の窮地を救いたい一心で、従兄のツテを頼ってどうにか彼との見合いに漕ぎつけたけど、冷静に考えれば彼ほどの男性が自分なんかと結婚してくれるわけがない。
 小学校から大学まで一貫教育の女子校に通う詩織が人に誇れるものがあるとすれば、その全ての教育過程において皆勤賞をもらえるほどの健康と、絶対に学校を休まない生真面目さくらいのものだろう。
 あとは一応、神崎テクノの社長令嬢という肩書きもあるが、正直その肩書きは、現在空前の灯火と言える状況にある。
 詩織の実家の家業である神崎テクノは、海外にも顧客を持つ電子機器メーカーで、複数の特許を保有しており、独自の加工技術に高い評価を受けていた。
 だが数ヶ月前のリコールと、データ改竄の発覚により、その株価は急落の一途を辿っているのだ。
 このまま手をこまねいていれば、神崎テクノは倒産の憂き目に遭うか、どうにか生き延びたとしても、歪な変容を余儀なくされる。
 そして篤は、社長の座を追われることになるだろう。
 そのような状況に陥った理由に関して、言いたいことはたくさんあるが、とにかく詩織は、今の自分にできることとして、神崎テクノの信頼回復に手を貸してくれそうな男性を婿に迎えられないだろうかと考えたのだが、冷静になるとかなり無謀な計画だ。
 それならこれからどうすればいいのかとあれこれ悩んでいると、詩織の肩に誰かが触れた。
「……っえ?」
 肩に触れた手の感触に驚き振り返った詩織は、再度驚き、大きく息を吸った。
「君が、望月の従妹でいいのか?」
 詩織の顔を確認して悠介の苗字を口にするのは、先ほどスマホで名前を検索した斎賀貴也、その人だ。
 間近で見る彼は、写真そのままの端正な顔立ちをしており、画面越しではでは気付くことのなかった独特な威圧感がある。
 生まれながらに人を屈服させる事になれている、王族のような存在感。
「若草色の着物を着ているはずと、あいつか連絡をもらっているんだが?」
 突然のことにポカンとする詩織に、貴也が言う。
 ――狼みたい。
 返事をすることも忘れて彼の顔を眺める詩織は、彼にそんな印象を抱いた。
 揺るぎない自尊心と意思の強さを隠さない彼の佇まいは、気高い獣を連想させる。
 ネコ科の獣のようなしなやかさがない代わり、全てを力業で捻じ伏して狙った獲物を確実に捕らえる獣。
 それでいて微かに下がった目尻が柔和さを醸し出し、その野生み溢れた存在感をうまく中和させえている。
「神崎詩織さん?」
「はい」
 再度名前を呼ばれた詩織が、慌てて返事をすると、貴也が安心したように表情を緩めた。
 その些細な変化に、詩織の胸が大きく跳ねた。
 ――な、なんかズルイ。
 彼が見せたその表情に思わずドキッとしてしまった詩織は、妙は敗北感に下唇を噛む。
「待たせて悪かった。飛行機の到着が遅れて……」
 詩織の肩から手を離した彼は、そのついでといった感じで前髪を掻き上げる。
 すっぽかされたと思っていた見合い相手が突然目の前に現れ、思考がフリーズしていた詩織は、再び彼に視線を向けられたことでハッと目を見開き慌てて立ち上がる。
 そしてその勢いのまま、腰を大きく曲げてお辞儀をする。
「あの……失礼いたしました。本日はお招き……違うっ……お越しいただき…………じゃなくて、お時間いただき…………あ、でもお越しいただきもありがとうございま……」
 支離滅裂もいいところである。
 自分の頬が熱くなるのを感じつつ、詩織は恐る恐る顔を上げた。
 すると上目遣いに見上げた先で、貴也は詩織から微妙に視線を逸らし右手で口元を隠している。
 男性的な長い指の隙間から見える口元は、確実に笑いを噛み殺している。
「――っ!」
 どうにか笑うのを堪えている貴也の姿に、自分の拙さを思い知る。
 彼のその姿に、詩織の思考は一層空回りしてしまう。
 ――斎賀さんが呆れて帰る前に、とにかく交渉しなくちゃっ!
 慌てつつもそう思考をまとめた詩織は、両手を組み合わせて言葉を紡ぐ。
「あの、私の父は神崎テクノという電子機器メーカーを経営して……ッ!」
「ストップ」
 貴也は、自分の置かれている状況を説明しようとする詩織の唇に人差し指を添えて黙らせる。
 軽くとはいえ、唇に触れる指の感触に、息もできないほど驚いてしまう。
「良家のお嬢様が、気軽に個人情報を晒すべきじゃない。軽率な発言が、家業に迷惑を掛けることもあるぞ」
 鋭い口調でそう窘め、周囲に視線を巡らせる。
「……」
 彼の目の動きを辿って、詩織は組んでいた手をほどいて口元を手で隠した。
 人で賑わうラウンジの中で、着物姿の自分と、華やかな佇まいの貴也という組み合わせはかなり目立つ。客の中には、チラチラこちらの様子をうかがってい者もいる。
 その中に、父の仕事関係者がいないとは限らない。
 詩織が黙ると、貴也はそれでいいと言いたげに小さく頷くと、詩織の左手首を掴んで歩き出す。
「その辺の話は、部屋で聞く」
「部屋……?」
 その単語に、緊張が走る。
 触れる手首から詩織の戸惑いを読み取った貴也は、こちらを振り返って人の悪い笑みを浮かべて聞く。
「なんだ、俺に政略結婚を持ちかけに来たんじゃないのか? それなら、ベッドの上で話した方が早いだろ」
 その言葉に、詩織の思考が再びフリーズしてしまう。
 一足飛びな展開に戸惑いしかないが、彼の言葉には一理ある。
 別に自分は、彼と恋愛をしたいわけじゃない。
 家族の後ろ盾を作るため、SAIGA精機の御曹司である彼と姻戚関係を結びたいと考えているのだから。
「け、結婚……してくれるんですか?」
 慌てて確認する詩織に、貴也はチラリと視線を向けて意地悪く言う。
「それは、ベッドでのアンタの反応次第だ」
 そう言われても、男性経験どころか、親族以外の異性とろくに口を効いたことのない詩織に、彼を満足させる自信はない。
「えっと……っ」
 正直に言えば、未知の体験が怖い。
 緊張で一気に血の気が引き、指先が痺れてくる。
 そんな緊張を振り払おうと、詩織は握られている手で拳を作り貴也を見上げた。
「わかりました」
 詩織の言葉に、貴也がわずかに目を見開く。
 彼のその反応に、なにかすごい期待をされているのではないかという不安に襲われた詩織は、慌てて付け足す。
「ただそういったことの所作がよくわからないので、教えていただければと思います。斎賀さんのご希望に添った反応ができるよう、最大限善処いたしますので」
「……」
 緊張で青くなりつつも覚悟を決める詩織の言葉に、貴也は何故か眉間を押さえる。
 自分はなにか失礼なことを言ったのだろうかと焦っていると、貴也はこちらに視線を戻し意地の悪い眼差しを向けて聞く。
「女を縛って、痛めつけてから抱くと言ったどうする?」
「――っ!」
 男女の営みに疎い詩織がおぼろげに抱いていた内容のかなり上を行く台詞に、思わず掴まれている手を引いてしまう。
 その動きを感じ取った貴也が、すかさずこちらを挑発してくる。
「逃げるなら、今のうちだぞ」
「逃げませんっ!」
 覚悟を決めて……、というより条件反射のように断言すると、貴也はやれやれと言った感じで肩をすくめた。
 そして視線を前に戻すと、無言で詩織の手を引いて歩いた。

 フロントでチェックインの手続きを済ませた貴也は、案内を断わり、そのまま詩織の手を引いてエレベーターホールに向かう。
 そして高層階でエレベーターを降りると、慣れた手つきで電子ロックを解除して扉を開ける。
「どうぞ」
 レディーファーストと言いたげに扉を抑える貴也に一礼して、詩織は部屋に足を踏み入れた。
 そのまま大理石貼りの広い廊下を進むと、眼下の庭園を堪能できる位置にソファーが配置されているリビングスペースに出た。
 視線を巡らせれば、続き間に扉の無い壁で区切られたベッドルームが見える。
 ――初めてって痛いらしいのに、縛られてそれ以上に痛いことをされて……
「……」
 キングサイズと思われる広々としたベッドを見ただけで、緊張で倒れてしまいそうになる。
 それでも自分の覚悟は変わらないと、大きく息を吸って姿勢を整えた詩織は、無言でそちらへと足を向けた。
「おいっ!」
 詩織に続いて部屋に入った貴也が、無言でベッドルームに向かう詩織に戸惑いの声を漏らすけど、ここで一瞬でも足を止めたら恐怖で動けなくなるにきまっている。
 それがわかっているので、詩織は彼を無視して部屋を移動するとベッドに腰を下ろし、草履を脱ぐとベッドの上で正座する。
 着物の袖を左右に広げ、膝の上で両手を重ねると、自分を追いかけて寝室に入ってきた貴也を見上げた。
 覚悟を決める詩織の姿に、貴也は何故だか眉間を押さえる。
「これは、どうぞご自由にお召し上がりください……って、意味かな?」
 眉間を軽く揉んだ貴也は、姿勢を戻すとベッドの上に鎮座する詩織に、からかい口調で問い掛ける。
「……はい」
 自分の前に立つ貴也の問いに、詩織は小刻みに震えながらも頷く。
 厳格な女子校育ちの詩織には、こういった場面でどのように振る舞うのが正解なのかわからないので、全て彼に任せるしかないのだ。
 無言のまま見上げていると、貴也は困り顔で首筋を掻くと、意地の悪い笑みを浮かべてベッドの端に腰を下ろした。
 その瞬間、彼の纏うトワレが鼻孔をくすぐる。
 癖のある香料が複雑に絡み合ったそれは、詩織や彼女の母が使う女性向けの甘い香りとは異質なもので、独特の癖と存在感がある。
 自分とは異なる香りを強く意識しただけで、詩織の鼓動は一層加速してしまう。
 でも貴也の方は、緊張した様子もなく、軽く腰をひねり、片膝を曲げてマットレスの上に乗せて詩織と向き合う。
 そして右腕を伸ばし、人差し指で詩織の顎を持ち上げる。
「初対面の男に誘われて、素直に部屋に着いてくるなんてなかなかの遊び人だな。初心なふりして男を煽るのがいつもの手か?」
 嘲を含んだ囁きに、詩織は赤面して首を横に振る。
「ちがっ――っ!」
 違う。と言い切るより早く、貴也の手に肩を押された詩織は、体のバランスを崩して仰向けに倒れ込んでしまう。
 驚いて息を呑む間に、貴也は中途半端な姿勢で投げ出された詩織の膝裏に腕を滑り込ませて足を伸ばさせると、彼女の上に覆い被さってきた。
 突然の展開に驚き、大きく目を見開く詩織の視界を、貴也の端正な顔が埋め尽くす。
 ――ち、近いっ!
 腕で体重を調整してくれているので息は出来るが、この逃げようのない状況と距離感が息苦しい。
「着物は、自分で着付けられるのか?」
 片腕で体のバランスを取る貴也は、もう一方の手で詩織の着物の襟元に指を滑らせながら聞く。
 つまり、このまま着物を脱がせてことに及んだ場合、着物を着直すことができるのかという確認なのだろう。
 互いに息遣いを感じられるほど近くにある貴也の顔から視線を逸らして、詩織は静かに頷く。
「茶道を習っていたので、自分で着付けはできます」
 だから今日も家族には、OGとして母校の茶道部のお茶会に出席すると嘘をついて着物を着てきた。
「茶会に行くのに友禅の着物を着込むとは、さすがは神崎テクノのお嬢様。大事に育てられてきたんだな」
 詩織の説明に納得する貴也は、襟元を撫でていた指を首筋へと移動させて結い上げた髪の後れ毛を弄ぶ。
 うなじに触れる彼の指の感触がくすぐったくて、彼の指が動くたびに肌にぞわりとした痺れが走る。
 その痺れをやり過ごすため首をすくめる詩織に、貴也は質問を重ねる。
「それでも自分の社会的地位を守るためになら、その愛娘を売りに出すんだから、神崎社長の人間としての程度が伺えるな」
 侮蔑的な貴也の言葉に、詩織はこれまでとは違った種類の熱が自分の顔に上るのを感じた。
「そ、それは違います。今日のことは、私が一人で決めたことです!」
 詩織はそう断言すると、貴也の指の動きが止まる。
 そして視線でその先を促してくるので、詩織は小さく深呼吸をして言葉を続けた。
「父が経営する神崎テクノは、数ヶ月前のリコールの公表と共に、その商品に関して過去にデータ改竄が行われていたことを公表しました。それは業者よりリベートを受け取った幹部が、子会社に指示をしていた不正で、それを知った父は速やかに情報公開と謝罪会見をおこないました」
 多くのフラッシュがたかれる中、深々と頭を下げる父親の姿を思い出し、詩織は悔しさに下唇を噛んだ。
 幹部が巧妙に隠し、自分の預かり知らぬ場所で行われた不正とはいえ全ての責任は自分の監督不行き届きにあると頭を下げた父。その姿に、胸を打たれ社員がいるのも確かだが、一部、不正に関与しつつも断罪を免れた社員は今後自身の罪を暴かれるのを避けるためにも関係者を厳しく処罰した父に全ての責任を押し付けて社長の座から引きずり下ろそうと考えた。
 そのために、今回のデーター改竄の指示を行ったのはあたかも社長の指示のもと行われたように印象操作を行っている。
 とはいえもちろん、全ての社員や取引先がそんな悪意に満ちた情報を鵜呑みにするわけではないので、現在神崎テクノは、社長派と反社長派の二つの派閥がいがみ合っている状況だ。
 そんな状況で大きなリコール問題を抱えた会社が正しく機能するはずもなく、神崎テクノの株価は下落の一途を辿っている。
 緊張で、時折言葉が詰ってしまう。それでも懸命に状況説明をする詩織の言葉に、上半身を起こした貴也が頷く。
「リコールの流れは経済誌で読んでいるし、社内紛争の流れについても、大体のことは望月から聞いている」
「……」
 それなら、さっきの父を侮辱するような言葉を撤回してもらいたい。
 不意に体が離れたことに安堵する詩織だけど、体を起こしていいのかわからず中途半端な姿勢で彼を睨む。
 そんな詩織の視線を受けて、貴也は人の悪い笑みを浮かべる。
「だから父親を救いたいアンタは、SAIGA精機の後継者である俺と結婚することで家族の後ろ盾になってもらいたいんだろ?」
 貴也の言葉に、今度は詩織が頷く。
 SAIGA精機は複数の特許技術を所有しており、その技術の一つの使用許可がほしいと、神崎テクノは以前から交渉していた。
 今もしその許可を得られれば、神崎テクノの業績回復の助けになるし、その理由が社長の娘である詩織と貴也の婚姻にあるとなれば、父に社長退任を迫りにくくなるのではないか。
 しかも悠介の話によれば、最近の貴也は家族に結婚をせかされているとのことだったので、まさに渡りに船。
 そう判断した詩織は、悠介に頼み込んで今日の見合いをセッティングしてもらったのだ。
「家族のために、俺に酷いことされていいのか?」
 詩織の目をまっすぐに覗き込み、貴也が聞く。
 その問い掛けに、詩織は間髪入れずに頷いた。
「はい」
 詩織の下には、二つ違いの弟がいる。姉の贔屓目を抜きにしても優秀な弟で、あと数年もすれば神崎テクノに就職して悠介と共に父の助けになるだろう。
 だからそれまで父の立場を守れるのであれば、詩織には自分の差し出せるもの全てを差し出す覚悟がある。
「その価値があると思えるくらい、私は両親から過分な愛情を受けて育てられました」
 緊張しつつもハッキリした声でそう答えると、貴也は長い指で自分の顎のラインをなぞって考え込む。
「後悔しない?」
「はい」
 迷うことなくそう返すと、貴也が再び覆い被さってくる。
 再び彼の体の重みを感じて緊張する詩織の首筋に顔を寄せて、貴也が囁く。
「じゃあ、目を閉じて」
「――っ」
 その言葉に、詩織は覚悟を決めて強く目を閉じた。
 でも、ちゃんと覚悟しているはずなのに、湧き上がる震えを押さえることはできない。
 どんなふうに触れられるのだろうかとビクビクしていると、詩織の耳元で貴也が囁く。
「望月から、アンタの性格や置かれている状況について色々聞かされたよ。自分の従妹は温室育ちのお嬢様で、普段はおとなしいくせに、世間知らずな分、時々思いがけない行動に出てあぶなっかしいと嘆いていた」
 詩織の首筋に顔を埋めるようにして話すので、彼の息づかいが詩織の敏感な肌をくすぐる。
 それが怖くてしかたなくて、詩織は拳を握りしめた。
「……」
 半泣きになりながら恐怖を耐えていると、貴也が不意にクッと喉の奥を鳴らした。
「望月は、アンタのことを妹のように可愛がっているみたいだな。『本当にいい子だから、見合いを受けたフリをして、どうか二度とこんなバカなこと思いつかないよう、ビビらしておいてくれ』って頼まれたよ」
「……はい?」
 緊張して身を固くしていた詩織は、一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
 思わず閉じていた目を開けると、笑いを噛み殺している貴也と目が合った。
 顔を上げてこちらを見下ろす貴也は、キョトンとする詩織と目が合った瞬間、プハッと盛大に吹き出しベッドに倒れ込む。
 そしてキョトンとする詩織と、優しい眼差しをこちらに向けてくる。
 わけがわからない……
 柔らかな彼の微笑みに、さっきとは違う意味で顔が熱くなるのを感じながら、詩織は言葉を絞り出す。
「…………から……かわれたんでしょうか?」
 上半身を起こして問い掛けると、貴也が首をこちらに向けて頷く。
「悪かった。俺に見合いを断わられた君が、他の男にも同じことをやらないよう、少し脅かしてほしいって望月に頼まれたんだ」
 そう言って、貴也はまたクスクスと笑う。
 さっきまでとは異なる柔らかな空気を纏う貴也は、詩織の呼び方を「アンタ」から「君」に切り替えている。どうやらさっきの横柄な物言いは、詩織の真意を探るための演技だったらしい。
 きっと先ほどの詩織の父に向けた棘のある言葉も、演技の一環だったのだろう。
「ひどいっ! なんで? 私に政略結婚でもしたらどうかって提案したのは、悠介君なのにっ!」
 少し前に、父の立場を守るために自分にできることはないかと、悠介に相談したところ、彼の方から今商談中のSAIGA精機とでも政略結婚できれば状況は変わるだろうと話したのだ。
 だから強引に今日の見合いの場をセッティングしてもらい、それ相応の覚悟を決めて挑んだというのに……
 詩織が涙目で抗議すると、上半身を起こした貴也が「だからだよ」と真顔で返す。
「望月としては、酒の席での冗談つもりで言ったのに、君が本気にしたから焦ったそうだよ。しかも断れば、お嬢様学校のツテを駆使して、似たような条件の他の御曹司と見境なしに見合いをしそうだって」
「う……っ」
 確かにそう言われてみると、相談したときの悠介は、かなり酔っていた気がする。
 そしてその予想どおり、この見合いに失敗した場合は、父の助けになりそうな他の男性と片っ端から見合いするつもりでいた。
 図星を突かれて黙る詩織に、貴也がため息を漏らす。
「その見合い相手が悪い奴で、結婚を匂わせて、言葉巧みに企業情報を聞き出してライバルに売る可能性もある。そこまでいかなくとも、やり逃げでもされたら、家族も君自身も傷付くことになるぞ」
 嫌そうに顔をしかめた貴也は、乱暴に自分の頭を掻いて続ける。
「それに結婚したところで、相手が君の願いを叶えてくれるとは限らないだろ」
「……」
「自分が誠実に生きれば、相手からも誠実な対応が返ってくると思ったら大間違いだ。それは、自分の父親の置かれている状況を見ればわかることだろう?」
 貴也の説教に返す言葉がない。
 確かに彼が言うとおり、自分の全てを差し出して口約束の婚約を交わしたところで、それを反故にされない保証はどこにもない。
 家族のためにと躍起になっていた詩織だが、貴也の言葉に冷水を浴びせられたような気分になる。
 自分を突き動かしていた熱が一気にしぼんでいくのを感じて、詩織は肩を落として項垂れた。
「試すようなことをして悪かったが、俺も君はいい子だと思う。だから自分を安売りして不幸になってほしくない」
「ごめんなさい。……それと、ありがとうございます」
 名案と思っていたのに、自分はかなり危ない橋を渡っていたようだ。
 貴也が常識的な人でよかった。
「愛してくれている親のためにも、自分の未来を安売りするな」
 口調こそぶっきらぼうだが、彼のその言葉に目の奥がツンと熱くなる。
「……」
 詩織が無言で頷くと、ふわりとした優しい口調で貴也が問う。
「もう懲りたか?」
「はい。他の方法を考えてみます」
 とは言っても、学生の自分になにができるだろうか。
 肩を落としてあれこれ考えていると、丸くなる詩織の背中に貴也の手が触れた。
 着物を着ているので手の感触をリアルに感じことはできないけど、それでも彼の手が大きくて温かいものに感じるのは、彼の優しさに触れたからだろう。
「……とりあえず、婚約はしてやる。泣かせて悪かったな」
「はい?」
 思いがけない言葉に、萎れていたことを忘れて素っ頓狂な声を上げてしまう。そんな詩織の反応に、貴也は優しく目を細める。
「さすがに結婚はしてやれないが、とりあえずの婚約者役くらいしてやるよ。望月とは長い付き合いだし、現社長の経営体制を維持できるよう、なるべく力添えもさせてもらう」
「え、どうして?」
 そんなことをして、彼になんのメリットがあるというのか……
 理解ができないと目をパチクリさせる詩織に、貴也がこともなげに返す。
「子供を泣かしたお詫びだ」
「……泣いてないです」
 泣きそうにはなったが、泣いてはいない。
 それに自分はもう子供じゃない。
 そこは勘違いしてほしくないと、詩織は素早く言い返す。
 すると貴也は、背中に触れさせていた手で詩織の頬を軽く摘まんで言う。
「じゃあ、泣いていい。十分がんばったし、怖かっただろう?」
「……」
 そんなふうに言われてしまうと、頑張って堪えていたものが、我慢できなくなるではないか。
 さっきとは違う意味で拳を握りしめて溢れてくる感情を堪えていると、貴也は詩織から手を離し、背中を向けて寝転がる。
「一度寝るから、泣き止んだら起こしてくれ」
「え?」
「泣き顔、見られたくないんだろ? 我慢する必要はないさ。泣き止んだら、お茶でも飲みながら今後のことについて話し合おう」
 素っ気ない口調でそう告げた貴也は、「出張先でトラブルがあって疲れたし、まだ時差ボケが残って辛い」といったことを口にする。
 状況がうまく飲み込めない詩織は、マットレスに手を突いて、自分に背中を向ける彼の顔を除き込んだ。
 その気配に気が付いた貴也が、薄く目を開けて「ん?」と声なく問い掛けてくる。
「斎賀さん、本当に私と婚約するつもりなんですか? そんなことして、斎賀さんになんのメリットがあるんですか?」
 おずおずと問い掛ける詩織に、貴也は「そのことか」と薄く笑った。
 眠気のせいか、彼のその笑い方は酷く無防備だ。
 その表情にドキッとしていると、貴也が言う。
「一人でいるとやたら見合いを持ってこられて面倒だから、しばらく婚約者を作っておくのも悪くないと思ってな」
「えっと、婚約ってなにをすればいいんですか?」
 情けない話ではあるが、今この瞬間まで、婚約をした後はなにをどうすればいいのか全く考えていなかった。
 情けなく眉尻を下げる詩織をチラリと見て、貴也が少しだけ笑う。
「そうだな……とりあえず、君のご両親に挨拶をして、婚約の承諾を得る。そして技術提供を口実に神崎テクノの体質改善……それは望月にも頑張らせるか」
 ぼそりぼそりと話す貴也は、少し考えるように視線をさまよわせてから詩織をチラリと見る。
「後は二人の関係を疑われないよう、時々は二人で食事にでも行くか」
 その声の終わりの方は、微かに寝息混じりになっていたので、本当に疲れていたらしい。
 そのまま目を閉じた貴也は、本格的な寝息を立て始める。
 恐る恐る貴也の頬を軽く摘まんでみたが、よほど疲れていたのか反応はない。
「寝てる」
 そう呟いた詩織は、脱力感に襲われた。
 貴也には泣き止んだら起こしてくれと言われたが、もう泣くような気分ではない。
 奇妙な展開ではあるが、どうやら自分は当初の目的どおり、理想的な婚約者を手に入れたようだ。
 そう納得すると、今日まで緊張でろくに眠れない日々を過ごしていただけに、一気に疲労感がこみ上げてくる。
「ありがとうございます」
 貴也の背中にそう声をかけると、彼は「んっ」と返事とも寝息とも判断つかない声をもらす。
 油断しきったその反応に、自然と笑いが漏れる。
 ――斎賀さん、いい人だな。
 起こさないよう注意しつつ彼の頬に触れていると、思いの他柔らかくて滑らかな手触りに驚いてしまう。
 男性の肌というものに、どんなイメージを抱いていたか。それはうまく説明できなのだけど、家族でもわざわざ頬に触れるようなことはなだけに、なんだか不思議な気分になる。
「……」
 くすぐったいような気持ちを持て余した詩織は、貴也から手を離すと、彼を真似てコロリと寝転がる。
 この状況でなにをすればいいなかわからない詩織は、彼の背中に額を寄せて、そっと瞼を伏せた。
 目を閉じて彼の気配を感じつていると、妙に胸がざわつくのに、そのザワザワに浸っていたい。
 そうやって彼の存在を心地よいものに思いつつ目を閉じていると、ここしばらく眠れない夜を過ごしていた詩織の体が疲労感に包まれていく。
「眠い……」
 と、呟いた時には、詩織の意識はすでに、半分眠りの闇に落ちていた。
 そしてそのまま深い眠りに落ちた詩織は、夜になって先に目を覚ました貴也に起こされるまで、気持ちよく眠り続けた。
 そうなってしまうと、もうゆっくりお茶を飲んで今後の打ち合わせをしている場合じゃない。
 慌てて家に連絡したけど、母校のお茶会に行っただけの娘が夕食時を過ぎても帰らないことを心配した母が高校時代の恩師に連絡したことでお茶会が嘘だということがバレた後だった。
 心配のあまり警察に連絡しようかと思っていたと話す母を、「今すぐ帰るから」と宥めて急いで貴也に家まで送って貰う羽目になった。
 そうやって家に帰ってみれば、家族に嘘を吐いてめかし込んで出かけた娘が、夜遅く、髪や着物が微かに乱れた姿でSAIGA精機の御曹司に送り届けられたという状況に、家族を動揺させることとなる。
 それでも貴也がそつなく対応してくれたことで、詩織と貴也は、既成事実のある婚約者として両家の家族に関係が認められたのだった。
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