怜悧な御曹司は秘めた激情で政略花嫁に愛を刻む

2・愛しの婚約者様

 企業向けの電子情報処理管理システムを提供するKSシステムのオフィスで、パソコンと向き合う詩織は「んっ」と唸り、小さく伸びをした。
 八月になったばかりの今日、室内は空調が効いていて涼しいが、窓の外に広がる空には存在感のある入道雲が湧き上がっていて見るからに暑そうだ。
「入力終わった?」
 伸びをしたついでに肩のストレッチをする詩織にそう問い掛けるのは、同僚で仲良しの木根里実である。
 癖のある栗色の前髪をヘアクリップでとめている里実は、詩織と目が合うと、ぱっちりとした目を数回瞬きする。
 名前もあいまって、彼女の目を見ると、丸っこいどんぐりを思い出す。
 そんなことを思いつつ、詩織は「おかげさまで」と返した。
「私はなにもしてないけどねぇ」
 詩織の言葉を受けて、里実はキャハハと笑う。
 確かに、先輩社員と営業で回った先の情報を入力していただけなので、里実になにかをしてもらった記憶はない。
「なんとなく、気分でそう返してみた」
 少し考えて詩織がそう答えると、里実はまた笑う。
 大学を卒業して二年、社会に出てそれなりに大人びてきたつもりではあるけど、仲良しの里実といると、つい学生気分を楽しんでしまう。
 それでも仕事はちゃんとしていますと言い訳するように、詩織はマウスを動かして次の作業に取りかかる。
 そのまま作業を進めていると、里実が不意に「あっ」と声を漏らした。
「……?」
 どうかしたのかと横目で彼女を窺うと、里実はこちらに顔を寄せてきて囁く。
「明日、合コンあるんだけど、たまには詩織ちゃんも一緒に行かない? 新しい出会いがあるかもよ」
 そう誘ってくれる里実は、実にワクワクした表情を浮かべている。
 誰に対しても気さくで社交的な性格をしている彼女は、よくそういった男女の出会いを目的とした飲み会にも参加している。
 でもそれは本気の出会いを求めているわけではなく、人脈を広げるためなのだという。
 運命の人とは、出会った瞬間に「あ、この人だって」とわかるはず。でもその運命の出会いに辿り着くためにも、自分の人脈は広げておいた方がいいというのは、里実の弁である。
 そして社交的な里実は、詩織にも運命の出会いが必要だと考えていて、参加メンバーの雰囲気によっては、こ時々うやって詩織のことも誘ってくれる。
 それは詩織が、恋人がいないと言っているせいなのだけど……
「誘ってくれてありがとう。でも私あまりお酒飲めないし、賑やかな場所苦手だから遠慮しておく」
 詩織がお約束の台詞を口にすると、里実は不満げに唇を尖らせる。
「いっつも、そう言って断るぅ。詩織ちゃん美人だから、合コン行ったら絶対モテるのに。行けば運命の王子様との出会いがあるかもよ」
 小声で抗議する里実に、詩織はごめんねと肩をすくめる。
 就職して多少の免疫はできたが、厳粛な女子校で育った詩織としては、今でも男性がかなり苦手である。
 そんなことを話すと、里実は「そんなんじゃ、いつまでも恋人も結婚もができないよ」と揶揄ってくる。
 ――恋人はいないけど、婚約者がいます……
 心に浮かぶその言葉を口にできないのは、貴也がかりそめの婚約者にすぎないからである。
 大手企業の御曹司で、見目麗しい彼は、理想的な王子様だけど、詩織の運命の相手ではない。
 そんなあれこれの事情を説明するわけにもいかず愛想笑いを浮かべていると、先輩社員である生駒に名前を呼ばれた。
「はい」
 返事をした詩織が振り返ると、生駒はこちらに視線を向けることなくビジネスバッグに資料を詰め込みながら聞く。
「営業に行くが、付き合えるか?」
 新入社員の頃、詩織の指導役を担当していたからか、生駒は今でも外回りの際に詩織に声を掛けてくれることが多い。
 営業のホープである生駒は、フットワークが軽く、何気ない会話の中から顧客のニーズを読み取り、問題解決に役立つ策を提案する技に長けていて、顧客の信頼も厚い。
 だから彼の外回りに同行すれば、学ぶことは多い。
「はいっ! 同行させてください」
 男性が苦手な詩織ではあるが、仕事のためとなれば話は別だ。
 元気よく返事をすると、手早くデスクを片付け、外回り用の資料が詰まったバッグを肩に引っ掛けて立ち上がる。
 席を離れる際チラリと視線を向けると、里実が「いってらっしゃい」と小さく手を振ってくれたので、詩織も手を振り返す。
「合コン、また誘うね」
 お見送りに付け足されたその言葉には、苦笑するしかない。
 ――貴也さんのこと話せない私が悪いんだけど……
 恋人がいない――その言葉に嘘はないのに、自分を思ってあれこれ声をかけてくれる彼女を騙しているような状況が心苦しい。
 ――婚約者がいるって言えたら、逆に楽なんだろうな。
 生駒の背中を追う詩織は、心の中でそうごちる。
 詩織は、職場の人に自分が神崎テクノの社長令嬢であることを隠しているので、当然の流れとして、SAIGA精機の御曹司である貴也と婚約関係にあることも秘密にしている。
 でも貴也との関係を人に話せないでいるのは、それだけが理由ではない。
 四年前のあの日、「さすがに結婚はしてやれないが……」と貴也に言われているからだ。
 確かに今の詩織は、神崎テクノの社長令嬢として、SAIGA精機の御曹司である貴也と婚約関係にあるが、それは政略結婚でも、愛を育んだ末の自然な流れというわけでもない。
 四年前、詩織の従兄である悠介と学生時代から仲のよかった貴也が、悠介に頼まれて見合いをひきうけることで詩織の無鉄砲な行動を諫めた。そのついでのようにして、期間限定の婚約関係を結んでくれたのだけど、その理由は……
 ――同情……だよね。
 後は、結婚する気のない貴也が、家族の持ってくる見合い話を断る口実が欲しかったといのもあるだろう。
 ちなみに貴也の両親は、仕事に忙殺される息子の将来を心配して見合いを勧めていただけなで、息子が自分から望む結婚相手がいるのならそれを反対する気はないと、二人の関係を手放しで認めてくれていいて、詩織の家とは家族ぐるみの付き合いをしてくれている。
 そんな貴也の両親をいつかガッカリさせることになると思うと心苦しいのだけど、貴也が自分との結婚を望んでいないのだから仕方ない。
 なんにせよ四年前のあの日、「子供を泣かしたお詫び」と言って貴也は詩織と婚約してくれたのだ。
 周囲を騙していることに心苦しい思いはあるけど、そうやって手に入れた理想的な婚約者様は、二人の関係が偽りのものであるのにも関わらず、詩織のことを婚約者として扱ってくれている。
 もちろんそれは、周囲に疑念を抱かせないための演技にすぎないのだろうけど。
 そのうえ彼は約束通り、技術供与の交換条件として神崎テクノの体質改善と求め、詩織の父である社長派閥の後押しをしてくれているのだ。
 その甲斐あって、神崎テクノは無事業績回復を果たし、そのおかげで詩織も社長令嬢の地位を維持できている。
 全ては、貴也のおかげだ。
 そのことに感謝しているからこそ、詩織としては、自分の胸で増殖していく一方のくすぐったい感情に名前を付けられずにいる。
 ――せめて貴也さんに、大人の女性として認めてもらいたいなぁ。
 だからまずは自立できるだけの強さを持とうと、両親の反対を押し切って就職して二年目、まずはもっと仕事を覚えたい。
「ん? どうした?」
 エレベーターホールで昇降ボタンを押す生駒は、隣で小さくガッツポーズを作る詩織に首をかしげる。
「いえ、自分を鼓舞しているんです」
 自分の無意識の行動が恥ずかしくて、詩織は握り締めていた拳を解いて手をヒラヒラさせる。
 そんな詩織に「頑張れ」と声を掛け、生駒は到着したエレベーターボックスに乗り込む。
「そういえば、今からどこを訪問するんですか?」
 生駒を追いかけてエレベーターに乗り込むかんが聞くと、生駒は一階のボタンを押して答える。
「うちの顧客じゃないんだけど、営業メール送ったら反応が良くて、説明を聞きたいって言ってもらえたんだ」
 地道な努力が実って今日の会社訪問に繋がったらしく、階数表示を見上げる生駒の横顔は誇らしげだ。
「そうなんですね。なんて会社ですか?」
 彼の表情から、相当大きな規模の会社なのだろうと推測しつつ聞く。そんな詩織の表情は、生駒の言葉で凍り付く。
「テレビCMとかしてるSAIGA精機っていう会社だ。ほら俳優のあの子が、軽快に社名を歌ってる……」
「え……?」
 もちろん知っている。なんだったら、この会社の誰よりも詳しいかもしれない。
 よほどご機嫌なのか、そのままSAIGA精機のCMソングを口ずさんでいた生駒は、チラリとこちらに視線を向けて「知らない?」と聞いてくる。
「いえ、なんとなくなら知ってます」
 思わずそう嘘を吐き、詩織はぎこちなく笑った。

 生駒と二人受付で渡されたパスを首から下げた詩織は、そのままスタッフにSAIGA精機の会議室へと案内された。
 会議室といっても、小規模な打ち合わせをするための部屋なのだろう。十人も入ればいっぱいといった感じの会議室には、長机が一つとそれを挟む形で四脚の椅子が向き合って設置されている。
 廊下とアクリルガラスで区切られた会議室は、スクリーンカーテンで視界が遮られているが、窓からは都心の街並みを一望することができる。
 その眺めも含め、機能的だが洒落た雰囲気を醸し出す会議室は、「さすが大企業の本社ビル」という一言に尽きる。
「さすが世界のSAIGA精機、立派なオフィスだな」
 並んで座る生駒も同じことを考えていたらしく、室内を見渡して呟く。
「ですね」
 再度室内を見渡し、詩織も頷く。
 一応の婚約者ではあるが、これまで詩織は貴也の職場を訪れたことがなかった。
 SAIGA精機が大企業であることは承知していたが、実際に訪れてみて、改めてその規模の大きさに驚かされる。
 ――貴也さんは忙しいだろうから、話を聞いてくれるのは別の人だよね。
 現在、彼は専務の役職を務めていて、常に多忙を極めている。そんな人が、わざわざ営業の対応をするなんてことはないだろう。
 貴也以外の社員が対応してくれるのであれば、詩織の素性や、貴也との関係がバレる心配なはい。
 それなら自分は、一介の営業として、生駒のサポート役を務めれば良いだけだ。
 最初こそSAIGA精機の名前に戸惑った詩織だけど、そう考えを纏めて自分を落ち着かせる。
 そうやって生駒と二人、その時を待っていると、程なくしてドアをノックする音が聞こえた。
 その音に反応して詩織と生駒が背筋を伸ばすと、ドアが開き大柄な男性が入ってくる。
 小太りで縁の太い眼鏡をかけた男性と、細身で白髪混じりの髪をした男性、どちらも四十代から五十代といった印象である。二人の男性の内、小太りの社員がドアを押さえると、白髪交じりの男性が深く頭をさげる中、悠然とした動きでもう一人長身な男性が入ってきた。
 先に入ってきた男性二人より確実に若いその男性の姿に、詩織は「あっ」と小さく声を漏らしてしまった。
 仕立てのよい三つ揃いのスーツに身を包んだその男性は、二人の社員を従えて大股に室内を進み、テーブルを挟んで詩織たちの前に立つ。
 ――貴也さん……
 ここは彼の会社なのだから、居ても不思議ではないのだけど、どうして彼がここにという思いが強い。
 詩織がポカンとした表情で見つめていると、一瞬視線を合わせた貴也は、ひっそりと口角を上げて笑う。
 形だけとはいえ、四年も彼の婚約者しているのだ、その笑い方は彼が悪戯を楽しんでいるときのものだとわかる。
 出会ったときから人目を引く存在感の持ち主であった彼は、三十一歳になった今、見目麗しい容姿はそのままに深みのある大人の男の色気まで醸し出している。
 神様にえこ贔屓されたとしか思えない、完全無敵の御曹司。そんな彼が一瞬だけ見せた少年のような表情は、かなり魅力的だ。
「お待たせして申し訳ない」
 ポカンとした表情で見とれている詩織から視線を逸らした貴也は、すました顔で挨拶の言葉を口にする。
「こちらこそ、貴重なお時間をいただきありがとうございます」
 隣の生駒が立ち上がり、素早く頭を下げた。
 一足遅れで、詩織もその動作をなぞる。
 そしてそのままの流れで、名刺交換と簡単な自己紹介を進めていく。
 貴也の名刺を受け取った生駒が、その肩書きを確認して小さく息を飲んだのがわかった。彼も最初の商談で、こんな上の人間が出てくるとは思っていなかったのだろう。
「勉強のために同席させていただきます」
 生駒に続き名刺交換をする詩織は、それを渡しつつ、貴也に「他人のフリをしてください」と視線で訴える。
「はじめまして」
 差し出された名刺を受け取った貴也がそう言ってくれたので、詩織の思念は彼に届いたらしい。
 でもその瞳には、相変わらず悪戯を楽しむ少年の輝きが宿っている。
「……」
 せっかく真面目に働いているのに、こんなことされると、父兄参観をされているようで落ち着かないではないか。
 とにかくここでは、お互い初対面のフリをするのが正解と、詩織も声に力を込めて「はじめまして」と挨拶をする。
 その言葉にも貴也がニヤリと笑うので憎たらしい。
 ――意地悪……
 周囲に気付かれないよう注意しつつ貴也を睨むと、小さく肩を竦められてしまった。
「どうぞおかけください」
 形式通りの挨拶を済ませ、貴也の勧めに従って着席すると生駒が自社のシステムの説明を始める。
 その話に貴也と二人の社員は真剣な表情で耳を傾け、時折気になる点について質問を挟む。そんな彼は婚約者として詩織が知る貴也の顔ではなく、企業の重責を担うビジネスマンの顔をしている。
 新鮮な思いでその姿を見つめていた詩織は、ふと会議室の入り口に佇む女性の存在に気が付いた。
 貴也が入室した後は、彼との無言の攻防に気を取られて気付かなかったが、いつの間にか一人の女性が、話し合いに参加することなく戸口で待機している。
 ――綺麗な人。……誰だろう?
 女性にしては長身でほっそりとした体型をした署の女性は、タイトなスーツを隙なく着こなしている。ハッキリした目鼻立ちを彩るメイクも、服装同様に隙がない。
 まだまだ学生っぽさが残る詩織とは違い、どこまでの完璧な大人の女性といった感じだ。
 この先何年頑張っても、自分も彼女のような大人の女性になれる気がしない。
 言いようのない敗北感に襲われる詩織は、彼女の眼差しが、貴也一人に注がれていることに気付いた。
 どういった感情を抱けばいいのかわからないけど、見てはいけないものを見てしまったような気分になる。詩織が慌てて視線を逸らそうとした時、相手の女性がこちらに視線を向けてきた。
 彼女は詩織の姿に視線を巡らせると、あからさまな侮蔑の笑みを浮かべてスッと視線を逸らす。
「……っ!」
 社会人として人間として唖然とするしかない彼女の態度に、ついキョトンとしてしまう。
 でもすぐに、紙を捲る乾いた音に、意識を目の前の商談に集中させていく。
「なるほど……」
 資料に視線を落とす貴也が呟く。
 ――なんだか変な気分。
 婚約して四年、貴也とは月に数回は二人で食事や観劇を楽しむ時間を作っているし、互いの家も行き来している。濃密な男女の営みこそないが、それなりに親しい距離感にいる彼の知らない一面に、妙に心がざわざわしてしまう。
 貴也の脇に控える二人の社員は、彼の一挙手一投足を見逃さないよう緊張した面持ちで彼の反応を窺っている。
 それを見れば、彼がこの会社においてどれほど重要な存在なのかがわかる。
「以上になりますが……」
 緊張しつつ一通りの説明を終えた生駒が、上目遣いに相手の反応を窺う。
「なにかご不明な点でもありましたでしょうか?」
 黙って相手の反応を待つ生駒に代わりに、そう声を発したのは詩織だ。
 よく通るその声に、周囲の視線が集中する。
 詩織は背筋を伸ばし、この場での主導権を握る貴也をまっすぐに見つめ返した。
 貴也がなにを考えているのかわからないけど、詩織は、仕事としてこの場所にきているのだから、やるべきことはわかっている。
 就職して二年、これまで学んできたことをきちんと披露するだけだ。
 胸を張って質問を待つ詩織にチラリと視線を向け、貴也が資料を指さす。
「そうだな……この使用項目の集計、クラウドで管理する場合、集計情報のアクセス件の管理はどうなる?」
「それは……」
 慌てて資料を捲る生駒を手の動きを制して、貴也が顎の動きで詩織に先を促す。
 つまり貴也が知りたいのは、詩織の仕事への理解度なのだろう。
 それなら望むところと、詩織は微かに口角を上げて説明を始めた。

  ◇◇◇

 先輩社員の生駒に同伴してSAIGA精機を訪問した日の夜、帰宅した詩織は、玄関ホールに揃えられた革靴に目を留めた。
 父である篤の物にしては洒落たデザインのそれは、大学生である弟の海斗が履くにはハイブランド過ぎる。
 なにより詩織は、イタリアの職人技と粋なセンスを感じさせるその靴を履いた人に今日会っているの。
「貴也さん、今日のあれは、なんなんですかっ!」
 昼間堪えていた感情を爆発させるように抗議しながらリビングに飛び込むと、篤とグラスを傾けていた貴也が「おかえり」と手にしていたグラスを掲げた。
 そんな貴也の向かいで、グラスを傾ける篤が「帰って来るなり元気がいいな」と鷹揚に笑う。
「詩織、なんですかその言い方は。それにまずは、お父様と貴也さんに、帰宅のご挨拶をなさい。それから手を洗って身だしなみを整えて、話はそれからでしょう」
 リビングと続き間にあるキッチンから姿を見せた母の牧子は、詩織をそう窘めると二人のためのつまみを乗せたトレイを運ぶ。
「すみませんね。まだまだ子どもっぽさが抜けなくて」
 楚々とした笑みを零し詩織の代わりに詫びる牧子は、二人の間につまみを乗せた皿を置く。
「いえ。いつも元気で、見ていて飽きないですよ」
 そんなフォローのされ方をすると、貴也に詩織は子供なのだから仕方ないと言われているようで面白くない。
「ただいま戻りました。着替えてまいります」
 よく考えたら、詩織が外で働くことにあまりいい印象を抱いていない両親の前であれこれ質問するのは避けるべきだろう。
 そう判断した詩織は、そう言って、ぷいっと三人に背中を向けた。
 そのままリビングを出て行こうとすると、背後から足音が追いかけてきた。
 ペタペタとスリッパを履いた足音が近づいてくる気配に振り返ると、すぐ背後に貴也が立っていた。
「貴也さん?」
 なにか用だろうか?
「鞄、部屋まで運ぶよ」
 貴也はそう言うと、詩織が肩に掛けていた鞄を取り上げる。
「自分で運べます」
 そう言って鞄を取り返そうと手を伸ばす詩織を、牧子がまた窘める。
「詩織、せっかくなのだから、貴也さんのご好意に甘えておきなさい」
「そうだ。貴也君も詩織と二人で話したいこともあるんだろう」
 母の小言に続いて、父までそんなことを言う。
 そして二人、視線を合わせて意味深に笑う。
 二人が言わんとしていることはわかる。
 詩織が大学を卒業してすぐにでも二人の結婚を……と願っていた両親としては、早くそのことについて話し合ってほしいのだろう。
 悠介の紹介で出会った詩織に貴也が好意を抱き、付き合うようになって婚約に至った。という作り話を信じ込んでいる両親は、二人の婚約関係がかりそめにすぎないということ知らない。
 ――私と貴也さんは、結婚しないんだけど……
 両親の期待を裏切るのは申し訳ないけど、結婚には双方の合意が必要なのだからこればかりはどうしようもない。
 そんなことよりも、今日の詩織には貴也と話したいことがある。
「じゃあ、お願いします」
「了解」
 憮然とした表情で詩織が頼むと、貴也が癖のある笑みを浮かべて鞄を受け取った。

「貴也さん、今日のアレはなんだったんですか?」
 自室に向かうべくめ階段を上る詩織は、その途中で足を止めて後ろに続く貴也を睨んだ。
「アレ?」
 涼しい顔でとぼけてくる貴也にギリリと奥歯を噛んで詩織が返す。
「今日の会社訪問です」
「ああ……たまたま目にした営業メールの中に、詩織の務めている会社の名前を見付けて、興味を持ってな。詩織、ちゃんと仕事してて偉いな」
 大人が子供のお手伝いを褒めるようなその口調が面白くない。
 ついでに言えば、今日、自分に侮蔑の視線を向けてきた彼女の存在も面白くない。
「そういえば、秘書の静原さんって、女の人だったんですね」
 今日、SAGAの会議室で、彼の質問に答える形で説明を続けていると、三十分ほど時間が過ぎたタイミングで戸口に控えていた女性がこちらに歩み寄ってきた。
 そして貴也に「専務そろそろお時間です」と耳打ちしたのだ。
 こちらに近づいて来たことで、彼女の胸元に着けられたネームプレートの静原明日香という名前を確認することができた。
 その名前を目にしたことで、詩織は彼女が誰であるかを理解したのである。
 これまでの何気ない会話の中で、貴也の秘書の苗字が静原であることは承知していた。
 ただ貴也はいつも秘書のことを話すとき、「静原君」と呼び、その人柄を表現する言葉としては「背が高い」とか「しっかりしている」といったことしか言っていなかったので、詩織は勝手に男性を想像していたのだ。
 確かに静原は、女性にしては背が高い方だ。だけど彼女を形容する場合、身長より先に触れるべきことがあったように思う。
 すごく綺麗な女性――その一言を省かれたことで、酷い裏切りを受けた気がしてしまうのは自分が未熟だからだろうか。
 言葉にしにくいグチャグチャとした感情が胸に詰まって息苦しい。
「言ってなかったか?」
 貴也は、軽く片眉を上げた。その表情をみれば、彼にとって秘書の性別など気に止めることではないのだとわかる。
 相手がそんなふうだから、あれこれ気にしている自分が稚拙だと言われているみたいで余計に恥ずかしくなるではないか。
「別にどうでもいいですけど」
 詩織は、プイッと顔を逸らしてそう話を打ち切ろうとした。
 そのまま階段を駆け上ろうとした詩織の手首を、貴也が掴む。
「――っ!」
 手首に触れた彼の体温に驚いた詩織が視線を戻すと、貴也がいつになく真剣な眼差しを向けてきた。
「そんなことより、さっき篤さんから聞いたんだが、帰りがこのくらいの時間になることが時々あるそうだな」
 こちらを非難するような貴也の声に反応して、腕時計を確認すると、時間は午後八時過ぎを示している。
「資料の作成をしていたら会社を出るのが、少し遅くなっただけです。電車の乗り継ぎのタイミングが悪いと、どうしてもこのくらいの時間になっちゃうんです」
 詩織の家があるエリアは、高級住宅地としてかなりの歴史がある。
 歴史がありすぎて再開発が難しいせいか、移動に公共交通機関を使う住人が少ないせいか、交通アクセスが少々悪い。
 もともと自宅と職場が離れているせいもあるが、そういったアクセス事情もあり、予定していた電車を一本乗り過ごしただけで、帰宅時間が大幅に遅れることがままあるので、両親にはいつも渋い顔をされている。
「二人とも詩織が朝は早く出かけて帰りの遅くなることが多いと心配していたぞ。この辺は閑静で、夜になると人通りも少ない。暗い夜道を若い娘を一人で歩かせることに、不安があるらしい」
 もとより詩織の両親は、詩織に就職などせず早く貴也と結婚してほしいと願っているので、詩織の帰りを待つ間に大げさに話したのかもしれない。
 ただでさえ、今日の商談の際に、父兄参観の保護者よろしく振る舞われただけにこれ以上色々言われるのは面白くない。
「貴也さん、お父さんみたいですね」
 詩織の方が階段の上段にいるため、いつも見上げているばかりの彼の視線を対等な位置で捉えることができるので、気迫を視線に込めて貴也を牽制する。
 形だけとはいえ、自分は彼の婚約者だ。娘や妹などではないのだから、これ以上、保護者よろしく子供扱いしてほしくない。
「なッ」
 詩織の言葉に、貴也は衝撃的を受けた表情で口をパクパクとさせている。
 ――やっぱり子供扱いしていたんだ。
 彼と対等の立場になりたいと、両親の反対を押し切って自力で就職先を探し、今日まで頑張ってきたのだ。
 その努力を、自分の成長を、もっと認めて欲しい。
「貴也さん、今日の私を見て思うところはないんですか? 会社に出て働く私の姿に、なにか気付くことはないですか?」
「……?」
 詩織の言葉にしばし考え込んだ貴也が、ハッと息を呑む。
 ――少しはわかってくれたのかな?
「一緒にいた男性社員と、お互いフォローし合っていたな」
 全くその通りだ。
 新人の頃は、一方的にフォローして貰うばかりだった詩織だが、最近は、生駒を助けることもあるのだ。
 その成長に気付いてもらえたことが嬉しくて、詩織は、それが嬉しくてはにかんだ笑みを零す。
 自分の思いが伝わったと喜ぶ詩織は、彼の表情がひどくこわばっていることには気付かず声を弾ませる。
「つまり、そう言うことです」
 彼に自分の頑張りを認めてもらえたのが嬉しくて、詩織は階段の途中で動きを止めた貴也から自分の鞄を取り返すと、弾むような足取りで自室に駆け込んだ。
 そして自室の照明を点け、着替えの準備をしようとクローゼットを開いたとき、背後でノックの音が響いた。
 振り返ると、返事を待つことなく扉を開けた貴也が、戸口に肩を預けてこちらに視線を投げかけてくる。
 その表情が、いつもの彼とどこか違っているように思えるのは気のせいだろうか……
「着替えたいんですけど?」
「少し話したら出て行くよ」
 貴也は、詩織の了承を待つことなく部屋の中に入ってきた。
 いつもの彼なら、返事を待たずに扉を開けるようなことはしないし、詩織の了承を得ずに部屋に入ってくることもないので、その行動力に驚いてしまう。
 部屋に入ってきた貴也は、そのまま詩織に歩み寄り、左腕をクローゼットに押し付けこちらへと顔を寄せる。
 詩織の退路を塞ぐような体勢を取る貴也は、どこか不機嫌な空気を纏っている。
「話はまだ終わってない」
 詩織の左耳に顔を寄せる彼の声は、苛立ちを含んでいて、普段聞くことのない声質に肌が粟立ってしまう。
「なんの話ですか?」
 こんなに密着して話す必要はないと、詩織は貴也の胸を必死に押すが、圧倒的な体力差があるので彼の体はびくともしない。
「婚約者として、フィアンセの仕事の帰りが遅いことを心配しているという話だ」
 それはさっき説明したではないか。
 無駄な努力とは理解しつつ、詩織は貴也の胸を押しながら言う。
「朝早く出かけるのは、家と会社が離れているんだから、しょうがないんです。それに帰りが遅いっていっても、社会人としては許容範囲内の時間には帰宅しています」
 必死に腕に力を込めているのに、貴也の体はびくともしない。それどころか、貴也はもう一方の腕もクローゼットに押し付け詩織を包囲する。
「この程度の腕力しかないんだから、心配するだろ」
 自分の腕の中でもがく詩織に、貴也が不機嫌に息を吐いた。
 どうやら彼がやたら体を密着させてきていたのは、詩織の腕力のほどを試したかったらしい。
「もしかして、両親に、私に仕事を辞めるよう説得してほしいとか頼まれましたか?」
 彼の体を押しのけることを諦めた詩織が、そのままの体勢で聞く。
 この四年で神崎テクノは危機的状況を脱し、社内紛争も収まりつつあるし、来年の春になれば、後継者予定である弟の海斗も就職する。
 詩織としては、そろそろ貴也の助けがなくても大丈夫ではないかと思っているのだけど、悠介に言わせれば、まだまだSAIGAの後押しは必要不可欠とのことだ。
 そんな微妙な状況のためか、純粋に娘の結婚を望んでいるのか、詩織の両親は、やたら結婚をせかしてくる。
 そんな両親の目には、仕事が結婚の妨げに映るらしく、帰りが遅い日が続くと、仕事を辞めてはどうかと言い出すのだ。
 今日も詩織の帰りを待つ間に、そんな話題が出たのだろう。
「両親がなんて言っても、私は仕事を辞める気はないです。貴也さんに助けてもらわなくても大丈夫なようになりたいんです」
 貴也の目をまっすぐに見上げて、詩織は自分の思いを告げる。
 良家の娘に産まれたからと言って、その暮らしが一生涯保障されるとは限らないのだから、誰かに依存するのではなく、自分の力で生きていける強さを身につけたい。
 そうやって一人の大人の女性として生きる力を付けた後でなら、胸に燻っているこの思いを言葉にすることが許される気がする。
「それは、ご両親に心配させてまで、続ける価値があることか?」
 詩織の思いを察することなく、両親の側に立つ貴也の言葉にカチンと来る。
 そもそも貴也と自分の関係は、かりそめのものなのだ。保護者よろしく、詩織の将来に関わることに口だししてほしくない。
「どうせ私たちは結婚しないんだから、貴也さんには関係のない話です」
「――っ」
 詩織の言葉に、貴也がグッと息を呑む。
 詩織は、これ以上保護者目線でなにか言わせはしないと彼を睨んだ。
 そんな彼女の視線を受けて、貴也は大きくため息を吐く。
「わかった」
 自分の中に溜まる感情を吐き出すように深く息を吐いた貴也は、詩織との距離を適切なものへと戻して言う。
「詩織の両親には、俺からも『今は仕事が楽しくて仕方ない時期だと思うから、静かに見守ってやってほしい』と頼んでおくとしよう」
「ありがとうございます」
 貴也がそう言ってくれれば、両親も納得してくれるだろう。
 詩織が表情を輝かせてお礼を言うと、貴也は癖のある笑みを浮かべる。
 両親が絶大なる信頼を寄せるこの婚約者様は、常識人に見えて、時々とんでもない悪ガキの顔を覗かせることがある。
 四年前、散々こちらを翻弄したあとで婚約してくれた経緯からそのことを理解している詩織としては、その笑顔に警戒心が働く。
 そんな詩織の予想通り、貴也はとんでもないことを口にする。
「そのついでに、ご両親の不安を減らすためにも、詩織の通勤の負担を減らすため、都心にある俺のマンションに引っ越した方がいいんじゃないかと提案しておく」
「……はい?」
 想定外の言葉に、思考がフリーズして彼の言葉が頭に入ってこない。
 キョトンとした表情で瞬きを繰り返す詩織を見て、貴也は悪戯を成功させた少年のように屈託のない笑顔を見せた。
「そんなわけだから、今週末にでもウチに引っ越してくるといい」
「はい?」
「その後すぐに夏季休暇入るし、新生活を始めるのにちょうどいいだろ」
 そう言って軽く右手を振ると、貴也は部屋を出て行く。
 扉が閉まる音に続いて、階段を下りていく足音が聞こえてくる頃になって、詩織の思考はやっと言葉の意味を理解する。
 つまり、形だけの婚約者にすぎないはずの自分は、貴也と一緒に暮らすことになったらしい。
「えぇぇっ!」
 誰もいなくなった部屋に、詩織は絶叫を響かせた。

  ◇◇◇

 神崎家を訪問した週の金曜日の夜、貴也はリズミカルな足取りで地下へと続く階段を下りていく。
 小さな金属プレートに筆記体で店名を綴っただけの素っ気ない店構えの扉を開けると、バリトンサックスの存在感が際立つジャズが聞こえてくる。
 オフィス街の片隅、存在を認識していなければ足を向けることない目立たない場所に構えるこの店は、会員制バーのため人に聞かれたくない話をするのにちょうどいい。
 といっても今日の貴也は、重要な商談をするためにこの店を訪れたわけではなく、人に聞かれたら「いい年をした男がなにを……」と苦笑いされそうな話をするためだ。
「斎賀っ」
 薄暗い店内に目が慣れるより早く、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
 そちらに視線を向けると、カウンターの隅に座る悠介がグラスを掲げて合図を送る。
「待たせたな」
 軽い口調で詫び、隣に腰を下ろした貴也は、バーテンダーにウイスキーのロックを注文する。
「俺もさっき来たところだよ」
 そうは言うが、悠介の手元にあるグラスは水滴が浮かび、酒も氷が溶けてかなり薄まっているようだ。
 相手を気遣って下手くそな嘘を吐くところは、詩織に似ている。
 ついでに言えば、互いの母方が姉妹だという悠介は、すっきりとした鼻筋や、二重の目の形も詩織と似ている。
 性別や年齢の違いもあり、普段はそれほど意識することのない些細な類似点を見付けるとつい笑ってしまうのは、それだけ自分にとって詩織が特別な存在であるということだ。
「なんかニヤついてるな。キモいぞ」
 こちらをチラリと見やり、悠介が言う。
「うるさい。三十過ぎて普通に『キモい』とか使う奴に言われたくないぞ」
 軽口を返して、貴也はバーテンダーから受け取ったグラスを口に運ぶ。
 SAIGA精機の重責を担う普段の自分であり得ない砕けた口調に、悠介は苦笑いを浮かべてグラスを傾ける。
 そうやって互いに喉を潤わせたところで、悠介が本題を切り出す。
「詩織と同棲することにしたんだな。そのおかげで、神崎家は大騒ぎだぞ」
 明日はいよいよその引っ越しの日のため、今日の神崎社長は仕事にならなかったと悠介が笑う。
 彼の話によれば、突如同棲を始めることになった詩織のために、彼女の両親が嫁入り道具と見紛うようなの品を揃えようと大騒ぎしているらしい。
「俺の住む家に詩織を迎え入れるだけだから、詩織が必要な日用品だけでいいって伝えてあるんだけどな」
 仕事で彼女の帰りが遅くなることを心配する神崎夫妻に、それならば婚約者として自分が暮らすマンションに住まわせてそこから通勤させてはどうかと提案したところ、前のめりに快諾してくれた。
 そのため着替えを済ませた詩織がリビングに戻って来た頃には、二人の同棲は決定事項として話が進んでいたのである。
 そのときの詩織の戸惑いの表情を思い出し、貴也は静かに笑う。
 そんな貴也の表情を横目で窺っていた悠介が、遠慮がちに問い掛けてくる。
「詩織のこと、悪いようにしないよな?」
 言葉の意味するところがわからず視線で問いかけると、悠介はグラスを回し、氷が溶けてなくなった水面に波紋を作って遊ぶ。
「お前には本気で感謝している。……だから、俺が言えるような立場じゃないのは十分わかってるだけど……」
 そんなことを端切れ悪い口調で話す悠介は、残っていたアルコールを一気に飲み干して言う。
「それでも、なんて言うか……親同士が仲良いから、詩織は俺にとって妹みたいな存在だから、不幸なことにはなってほしくないんだ」
 悠介の言いたいことはわかる。
 四年前、この悠介が従妹の無謀な行動を止めてほしいと頼んできたのが全ての始まりだったのだから。
 当時、大学時代の友人である悠介に頼みがあると呼び出された時は、てっきり神崎テクノへの支援についてだと思っていた。
 それなのに久しぶりに顔を合わせた旧友は、自分も窮地に追い込まれているはずなのに、その話はそっちのけで、従妹の無茶を止めてほしいと懇願してきたのだ。
 そのキッカケが、酔った悠介の軽口にあるだけに、本気で責任を感じているのだと言う。
 そんな悠介の姿に、貴也は神崎テクノを助ける気になった。
 本当は、悠介をSAIGAの支援を決定事項にするためのキーパーソンに据えれば、別に自分と詩織が婚約する必要はなかった。
 それなのにあの日、少し脅して、無茶な行動を諌めるだけでよかった詩織に婚約を提案したのは……
「俺もだよ」
「え?」
 次の飲み物を注文していた悠介は、貴也の言葉を聞き逃したのか聞き返してくる。
 恥ずかしいので、一瞬無視してやろうかと思ったが、悠介はこちらに視線を向けていつまでも言葉を待つ。
 それで仕方なく、貴也は口を開いた。
「俺も、詩織には不幸なことになってほしくない」
 ついでに言えば、詩織を幸せにするのは自分でありたい。
 最初その気持ちは、年長者の庇護欲といったもので間違いなかった。
 初対面の彼女は確かに整った顔立ちをしてはいたが、まだ幼さが残っていて、とても恋愛対象にはならなかった。
 ただ大事な家族のためにならと自分を犠牲にしようとする詩織が健気で、試すように彼女の家族を悪く言った際に向けられた迷いのない眼差しは印象的で貴也の興味を引いた。
 交渉に必要な駆け引きの知恵も持たず、勢いだけで自分のもとに飛び込んできた彼女には、無垢で純粋過ぎる故の危なかっしさが見て取れた。ほおっておいたら、他の誰かに傷つ付けられてしまうのではないかと心配してしまったのは、今思えば恋心の始まりだったのかもしれない。
 そんな後付けの感情を口にするつもりはないと、翔也は酒で唇を濡らす。
「最初、詩織に婚約を提案したのは、彼女がもう少し大人になるまで守ってやった方がいいと思ってのことだったのにな……」
 それなのに気が付けば、その頃とは異なる感情で、大人になった彼女を手放せなくなっている自分がいる。
 諦めの心境で胸の内を晒す貴也の言葉に、悠介がポカンとした表情を浮かべる。
 瞬きするのも忘れてこちらを見つめていた悠介は、新たなグラスがカウンターに置かれる音を合図にしたようにこちらに身を乗り出してくる。
「え、なにそれ、そういうことなの? いつから?」
 いくら詩織に似た面立ちをしていると言っても、男の顔を間近に寄せられても嬉しくない。
 悠介の顔をグイッと押し返しつつ考える。
「いつからって……」
 明確な時期はわからないが、詩織が就職することなく神崎テクノのご令嬢として花嫁修業でもしていれば、折を見て婚約解消したかもしれない。
 でも両親の反対を押し切って、強い意思を持って社会に出て行く彼女の姿に惹かれていったのは確かだ。
 蕾が、大輪の花を咲かせるように、日々、魅力的な大人の女性に成長していく彼女から目が離せなくなっていた。
 それでも突然彼女との同棲を提案した理由は……
「職場の先輩と一緒に商談に来た詩織の姿を見て、思うところがあってな」
 先輩らしき男性社員のサポートを受けながら、澱みなく話す詩織の姿に惚れ直すと共に、男性社員との距離感が気になった。
 詩織に同伴してきた生駒とかいう社員は、貴也よりは若く、詩織よりは年上といったところだろう。背が高くこざっぱりした見た目で、頭の回転も早く、いかにも営業のホープといった感じだった
 いつも職場で顔を合わせる頼りになる先輩というのは、女性からするとかなり魅力的な存在に映るのではないだろうか。
 その辺のことを探りたくて、その日の夜に彼女の家を訪れたところ、詩織に「お父さんみたい」と牽制された上に、はにかむ笑顔で「私の姿を見て、気付くことはないですか?」と問いかけられて焦った。
 それはつまり、隣にいた先輩社員と仲良く仕事をしているのだから、邪魔しないでくれということではないのだろうか。
 だとすれば、毎日職場で顔を合わせる頼れる先輩と、たまに会う形だけの婚約者では、確実にこちらの部が悪い。
 それなら自分も彼女との距離を改めようと、詩織の通勤距離を口実に同棲を提案したのだ。
 つまり、ただの嫉妬である。
 苦い表情でグラスを傾けつつ、そんな胸の内を明かす翔也は、最後に「絶対に詩織に言うなよ」と、釘を刺すのを忘れない。
「なんでだよ? アイツ、お前に懐いているから、聞いたら喜ぶのに」
 そう言ってニヤニヤした笑みを浮かべる悠介に、翔也は「だからだよ」とため息を吐く。
 貴也だって、自分が詩織に嫌われているとは思っていない。というより、好意を寄せられているのだとは感じている。
 だけどそれは、雛の擦り込みに近い感情である可能性が高い。
 その証拠に、これまで詩織に「好き」といった感じのことを言われたことはない。
「俺の方から明確な好意を示すと、アイツの選択肢がなくなるだろ。せめて神崎テクノの業務改善が終わるまでは、俺から口説くわけにはいかない」
 今の状況ではどうしても詩織の方に、助けられているという負い目が生じてしまう。
 以前に比べて経営状況は、かなり回復した。とは言え、まだまだ不安要素が残っており、SAIGAの支援は外せない。
 そんな状況で貴也の方から口説けば、彼女はそれを承諾するしか選択肢はない。雛の刷り込みのような形で自分に好意を寄せている詩織なら、それを愛情と錯覚して自分を受け入れてくれるだろう。
 だけど自分が欲しいのは、憧れや、感謝の念ではなく、男女としての対等な愛情なのだ。
「真面目だな」
 目を細めグラスを傾ける悠介は、「俺も恋がしたい」とぼやく。
 詩織に似た顔立ちの悠介は、学生時代から華のある存在で、女性人気も高かった。
 だがこの人の良さが災いして、こと恋愛に関しては、いい人止まりで終わることが多い。
 ついでに言うと、全てにおいて、のらりくらりしていてやる気に欠ける。
 ――基本、こいつもお坊ちゃん気質なんだよな……
「お前がもっとやる気を出して、神崎テクノを立て直してくれれば、その時は告白するさ」
 翔也は、呆れ声を漏らす悠介を睨むと、頭は悪くないはずなのに、どこか頼りない友人に喝を入れる。
 この一言のために恥ずかしい胸の内を晒したというのに、件の友人は、視線を逸らしてとぼけているので腹立たしい。
 とはいえ、翔也は彼のこの性格が嫌いではない。
「まあ、二人の距離感を改めるところから始めてみるさ」
 翔也はそう言ってグラスを傾けた。
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