怜悧な御曹司は秘めた激情で政略花嫁に愛を刻む

7・罠

 その週の水曜日、詩織は生駒と二人、SAIGA精機を訪れていた。
 訪問の目的は、育休に入る生駒から詩織に窓口が引き継がれる旨を伝え、担当者との顔合わせをするためである。
 生駒が受付で入構手続きを取ろうとすると、その後ろに立つ詩織の姿に気付いた社員が「そのままどうぞ」と案内しかけるので、大きく首を振ってそれを止めた。
「ふ・つ・う・に・て・つ・づ・き・し・て・く・だ・さ・い」
 生駒に気付かれないよう、口パクでそう告げると、受付の社員は緊張した面持ちで頷き、通常の受付手続きに入る。
 とは言っても今日の場合、事前連絡をしてあるので、代表者の名前を書いて本人確認をすれば、すぐに通行証をもらえるのだけど。
「なんか受付の人、神崎のことをやたら意識してなかったか?」
 受付で渡された「Guest」と記載された入構証を首から下げる生駒は、案内を受けた会議室で担当者が来るのを待つ隙に詩織に聞く。
「気のせいじゃないですか」
 椅子に行儀よく座る詩織は、涼しい顔で嘘を吐く。
 ――生駒さんの仕事を引き継ぐなら、貴也さんから普通の対応してもらうよう頼んでおいた方がいいよね。
 そういう意味でも、この先の働き方に関しては貴也と話し合う必要がある。
「気のせいかな……」
 こめかみに指を添え、高い位置に視線を向ける生駒は、どこか納得のいかない様子すである。
 虚空を見つめつつ、先ほどの社員の反応を思い出しているのかも知れない。
「そんなことより、お子さんはどうですか?」
 生駒の奥さんは、先月末、無事に第一子になる男の子を出産した。
 里帰り出産をしたとのことで、育休に入ったら生駒は自分の運転で家族を迎えに行くのだと言う。
 先週末、ひとまず我が子に会いに行ってきたという生駒は、「よくぞ聞いてくれました」といいいたげな表情で話し始める。
「黄疸もすっかりひいて、夜泣きも少なから急いで育休に入らなくても大丈夫だって奥さんは言ってくれたんだけど、俺が早く一緒にいたいんだよな……」
 優秀な先輩なだけに、仕事がらみの会話ばかりしている生駒が、嬉々として父親の顔で家族について話す。
 その姿は新鮮で、詩織の心を和ませる。
 ――子供ができたら、貴也さんも、こんな顔で誰かに私たちのことを話してくれるのかな?
 先日、一緒にお昼を食べた里美が「好きな人ができたら、結婚どころか子供の名前まで想像する」と話した時は、気が早過ぎると苦笑いしたけど、自分もたいして変わらない。
 まだ結納も済ませていないのに、二人の間に子供ができた場合を想像して、ニヤニヤしてしまう。
 そうやって心のどこかで貴也と自分の今後に状況を重ねながら生駒の話を聞いていると、会議室の扉を叩くノックの音が響いた。
 コンコンッと響くノックの音に、生駒は口をつぐみ、詩織は姿勢を正す。
 二人して素早く頭を仕事モードに切り替えると、扉が開いた。
「失礼します」
 感情を感じさせない声と共に会議室に姿を見せたのは、貴也の秘書である静原だ。
 そのことに詩織は、静かに驚いた。
 ただの営業担当の交代に、貴也まで顔を出すとは思っていなかったからだ。
 ――どうしよう……
 貴也の方でも公私を分けて話してくれるとはおもうけど、それならそうで、一言くらい教えておいてくれてもいいのに。
 妙な緊張を感じて、若干貴也を恨めしく思う詩織だけど、静原の後に続く人の姿はない。
 ――あれ?
 一人で会議室に入ってきた静原の手には、トレイが乗せられている。
 器用に片手でトレイを持ち、もう一方の手で扉を閉めた彼女は、にこやかな表情で口を開く。
「お待たせして申し訳ありません。じき担当の者が参りますので、お茶でも飲んでお待ちください」
 そう話しながら生駒がこちらに歩み寄ると、ふわりとコーヒーの香りが漂う。
 芳醇な香りから、インスタントではなく、挽き豆で淹れたコーヒーなのだとわかった。
「お気遣いいただいてすみません」
 焼き菓子と共に出されるコーヒーに生駒は恐縮しきりだが、詩織としては、前回エレベーターで攻撃的な言葉を浴びせてきた静原の気遣いにどうしても警戒心が働いてしまう。
 ――毒とか入ってたらどうしよう……
 それはさすがに冗談だけど、彼女から出されたコーヒーを素直に飲んでも大丈夫かは少し考えてしまう。
 そのもそも貴也の秘書である彼女が、わざわざコーヒーを運んできた状況が解せないのだ。
 今日の挨拶に、貴也が同席するとは聞いていない。
 それなのにどうして彼女が……
 警戒しつつ彼女の動きを見ていると、生駒の次に、詩織の前にコーヒーを置こうとした静原が「あっ」と、小さな声を漏らした。
 それと同時に、詩織の胸元に、鈍い熱が広がる。
「え……?」
 不意の刺激に驚き胸元を確認すると、白いブラウスの胸元に、琥珀色のシミが広がっている。
 色とそこから漂う芳醇な香りから、一拍遅れで、彼女にコーヒーを掛けられたのだと理解した。
 とは言っても、カップの中のコーヒー全てをぶちまけたわけではなく、ソーサの上にカップを置こうとした手が滑って、その勢いで何割かのコーヒーが詩織にかかってしまったという感じだ。
 とは言っても、偶然跳ねたしては量が多いので、意図してやったことなのだろうけど。
「申し訳ありません」
 カップとソーサに置いた静原が、オロオロとした口調で詫びてくる。
 そしてそのまま自分のスーツのポケットから取り出したハンカチで、詩織のブラウスのシミを拭く。
 その姿はとてもしおらしいのだけど、どう考えてもわざとだ。
 大事な顔合わせの前に、ブラウスを汚されたのは悲しいけど、毒入りコーヒーを飲まされるより数倍マシではある。
 すばやくそう頭を切り替え、詩織は隣でどうしたものかとことの成り行きを見守っていた生駒を見た。
「すみませんが、とりあえず簡単に水洗いしてきます」
 幸いにもコーヒーが飛んだ面積は狭いので、無理のない範囲で水洗いして、会議室に入った時に脱いだジャケットを羽織れば目立たないだろう。
 そう判断した詩織がジャケットを片手に立ち上がると、静原が「では、ご案内させていただきます」と、トレイをテーブル置く。
「いえ、お手洗いの場所だけ教えていただければ大丈夫です」
「いえ。汚してしまったのは私の不手際ですし、正直に申し上げますと、あまり他者の方に勝手に歩かれても困ります」
 正直、彼女と一緒に行動したくない。
 やんわりと彼女の案内を断ろうと思ったのに、そう言われてしまうと断れないものがある。
 それで渋々、詩織は静原の案内を受けることにした。

「あれ?」
 静原の案内を受けて廊下を移動していた詩織は、前を歩く静原が社員証をかざして何処かの部屋の扉を開ける姿に戸惑いの声を漏らした。
 てっきりお手洗いに案内してもらえると思っていたのに、どうやら違うらしい。
 静原は、自分の社員証をかざし電子ロックを解除する。
 周囲を確認すように視線を巡らせてから、扉を開くと、顎の動きで詩織に付いてくるよう合図すると、無言で中へと入っていく。
 それで仕方なく詩織もその後に続いた。
 そこもまた先ほど生駒と一緒に待たされていた会議室とは仕様が異なる会議室のようだった。
 先ほどのように大きなテーブルを数人で囲むように椅子が配置されているのは同じなのだが、この部屋には正面の右端には演台があり、壁には可動式のロールスクリーンが下げられている。演台の上には、デスクトップタイプのパソコンも設置されている。
 おそらく、資料や動画を使用したディスカッションをする際などに使用するために使う部屋なのだろう。
「ここで待っていてください」
 部屋の中に視線を巡らせていると、戸口に立っていた静原は部屋を出て行った。
「え……っ」
 一瞬閉じ込められたのかと思い、扉を押すと難なく開く。
 それで廊下に顔だけ出して周囲を確認してみたけど、辺りに人の軽輩はない。
 ――閉じ込められたわけじゃないなら、少しこのまま待ったほうがいいよね?
 先ほど静原が言っていたとおり、いくつもの特殊技術を保有しているSAGA精機は、他社の社員が単独で行動することを嫌う。
 そんな場所でKSシステムの社員として訪れている詩織が、勝手に動くことで相手方の心証を悪くするわけにはいかない。
 素早く考えを纏めた詩織が会議室に首を引っ込めおとなしく待っていると、ほどなくして静原は濡れタオルを手に戻ってきた。
 そしてそれを、不機嫌な表情でそれを詩織に差し出す。
「あ、ありがとうございます」
 戸惑いつつも差し出されたタオルを受け取った詩織は、ジャケットを脱ぎシミを拭く。
 それを眺める静原は、詩織が適当な椅子に掛けていたジャケットを手に取った。
「私は、貴女と専務の関係を認めませんから」
 詩織のジャケットのタグからノンブランドであることを確認した静原が、平坦な口調で言う。
「……」
「神崎の社長令嬢だか何だか知らないけど、専務ほどの人の隣を、貴女程度の女が歩くなんて許せないわ。あの人の隣を歩く権利は、もっと上質な女にこそ相応しいのよ」
 感情を押し殺しているからこそ、彼女の内側で押さえようのない怒りの炎が揺らめいているのが感じられて怖い。
 でもだからこそ、短い言葉に彼女の本音が垣間見えて腹が立つ。
「この話をするために、私にコーヒーを掛けたんですか?」
 タオルでブラウスのシミを押さえながら詩織が聞くと、静原はニッと唇の両端を持ち上げて笑う。
 だとしたら、お手洗いではなくこの場所に詩織を案内したのは、このやり取りを誰かに聞かれないためなのだろう。
「だって私、彼と結婚するためにこの会社に入ったのよ。父も、私と専務が結婚することを今も望んでいるわ。私自身、彼くらいの人じゃないと満足できないし」
 以前悠介から、静原はSAGAの古参社員の娘で、父親は、詩織と貴也が婚約していなければ、自分の娘と貴也を結婚させたかったのだと聞いているけど、静原親子のその野望は、どうやら現在進行形のようだ。
 ――くだらない。
 詩織は真面目に仕事をするためにこの場所に来ているのに、静原は、こんなくだらない話をするために、わざわざ詩織のブラウスを汚したのだ。
 そんなことを平気でやれるような人に、人間の質について語ってほしくない。
 詩織は背支持を伸ばし、静原を見上げた。
 詩織に比べて彼女の方が背が高く、間近で見る顔は、同性の詩織からみてもやっぱり美しい。
 初めて会ったときは、自分の理想を具現化したような存在だと思っていた彼女だけど、今は彼女のようになりたいなんて絶対に思わない。
 さっき静原は、貴也の隣に立つ権利を、ブランド物のバッグでも見せびらかすような口調で相応しい、相応しくないを語る。
 それが詩織には、どうしても許せない。
 詩織は大きく息を吸って呼吸を整えると、毅然として思いで告げる。
「貴也さんに誰が相応しいか、それを決めるのは、私でも静原さんでもなく、貴也さん自身です」
 これまでだって貴也は、全てを自分で決めてきた。
 詩織との婚約や同棲も一人で決断してしまう彼は、その分、全ての責任を自分一人で背負う覚悟をしている。
 彼のその強さは、貴也自身をひどく孤独にしているんじゃないかと心配になってしまう。
 だから詩織は、自分が彼のお荷物であり続けるのが嫌で、自立できるよう頑張ってきたんだ。
 そしてそんな自分を、彼が愛してると言ってくれた。
 詩織としては、彼に愛してもらえた自分の価値観を信じたい。
「貴也さんが、私を選んでくれたのなら、私は彼に愛してもらえる存在であり続ける努力を続けるだけです」
 そこに静原の意見など関係ない。
 そう胸を張る詩織は、彼女から借りていたタオルを差し出す。
 一瞬だけ毅然とした詩織の態度にひるんだ静原だが、すぐに奥歯を強く噛んで言い返す。
「なに、社長令嬢ってだけで、ずいぶん偉そうね。なんの苦労も知らない嬢様が、偉そうに人生語らないでほしいわ。社長令嬢って肩書きがなければ、専務だって貴女に見向きもしなかったのに」
 それは偏見だ。
 確かに恵まれた環境で育ったかも知れないけど、社長令嬢に生まれたからこその悩みが、詩織にだってある。
 四年前、自分から貴也に政略結婚を申し込んだ時だって、稚拙なりに家族を思って行動に出を起こしたのだし、その時に自分の不甲斐なさを思い知らされたこそ自立を目指した。
 その結果、そんな詩織だからこそと好きになったと貴也に告白された時には、人生のご褒美をもらったような気持ちにさせられた。
 だからこれからも仕事と結婚の両方を頑張っていきたいと思っていたのに、それが家族の迷惑になると知らされた。
 そうやって詩織だって、詩織なりの悩みを抱えて、それでも貴也と一緒にいたくてもがいている。
 それに貴也だって、なんの苦労もない御曹司というわけではない。
 与えられるものが大きいからこそ、プレッシャーも大きい。
 彼は常に会社や社員のことを思い、状況をよりよくしようと思考を巡らせている。
 そしてその社員の中には、もちろん静原も含まれていて……
 ――このことを知ったら、貴也さんはきっと悲しむ。
 詩織の苦悩や葛藤、貴也の優しさが渦を巻き、偏見に満ちた彼女の言葉が悔しくて仕方ない。
 だけど、一緒に仕事をしている貴也の苦労さえ理解しようとしない彼女に、自分の感情をぶつけたいとは思わない。
「どんな人にも、その人なりの苦労はあります」
 だからきと、こんな常識のない行動を取る静原にも、彼女なりの苦労はあるのだろうけど……
 詩織はこれ以上話し合う気はないという意思表示のために、手にしていたタオルを再度彼女の方に突き出した。
 すると今度は静原もタオルを受け取り、それと交換するように詩織にジャケットを返す。
 渡されたジャケットを羽織り、ボタンを留めると、予想どおりどうにかブラウスの汚れは隠せそうだ。
 ――よかった。
 安堵からなんとなくシミ辺りをポンポン叩いていると、静原が言う。
「もう一度だけ言っておくけど、貴女なんか、専務に相応しくないわ」
 それを決めるのは貴也だと、もう一度彼女に言ったところで、さっきの話の繰り返しになってしまうのだろう。
「……」
 自分は彼女と議論するために、この会社に来たわけじゃない。
 そろそろ相手方も来る頃かもしれないので、詩織は無言で一礼して静原に背中を向けた。
 そのまま会議室を出て行こうとする詩織の背中に、静原が「警告はしてあげたわよ」と呪詛のような言葉を投げつける。
 そんな彼女の態度に若干の不安を抱きながら廊下に出た詩織は、気持ちを切り替え生駒がいる部屋へと急いだ。

 詩織が戻ると、ほどなくしてSAIGA精機の担当者も到着して、引き継ぎの顔合わせは順調に進められた。
 もともと最終プレゼンの前に、生駒と担当者の間でかなりはなしはつめてあったし、正式契約後の一ヶ月で、あらかたの道筋は生駒と技術開発部のスタッフで作り上げてある。
 だから後はシステムの本格導入までに、新たに出てくる要望や、試験運用を行って浮き彫りになってくる問題点を見付けて、技術部門との調整役をしていくのが主な仕事になる。
 これまでの経験上、試験運用始から納期までは修羅場と化すけど、今のこの時期は凪のような状態なので、顔合わせもいたって穏やかに進んだ。
 それにはSAIGA精機の担当者と生駒の気が合ったというのもあるのだろうけど。
 趣味などの共通点がかなりあったらしく、二人の雑談が尽きる気配はなく、生駒と詩織が帰る際、SAIGA精機の担当者は、生駒と世間話をしながら一階まで見送りに出てくれた。
 静原の件を除けば全てが滞りなく済んだと、詩織はご機嫌な思いで入構証を受付に返した。
 ――さて後は帰るだけ。
 軽やかな思いで踵を返した詩織は、いつの間にやら自分の背後に人が立っていたことに驚いた。
「――っ!」
 自分の真後ろに人が立っていたことに驚いた詩織は、一歩後ずさりして背後に立っていた人の服装を確認して目を瞬かせた。
 そのまま視線を上げていくと、詩織と目が合った警備員が、なんとも曖昧に会釈をくれる。
「失礼ですが……」
 これまで数回SAIGA精機を訪れたことはあるが、一階フォロアに常駐している警備員に話しかけられたのはこれが初めてだ。
 そのせいで後ろめたいことはなにもないのに、妙に緊張してしまう。
「あの……なにか?」
 こわばった表情で見上げる詩織の反応を違う意味に捉えてしまったようで、相手の表情が一気に険しくなる。
「お手持ちの品の確認をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
 口調こそ質問の形を取っているが、有無を言わせない気迫がある。
「どうぞ」
 その勢いに気負されたわけではないが、詩織は、自分のバッグを差し出した。
 もちろんそれは、詩織に後ろめたいものがないからだ。
 それなのに詩織のバッグを受け取った警備員は、なにか確信があるのか、バッグを受け取った腕を伸ばしたまま続ける。
「上着もお預かりしていいでしょうか?」
「えと、それは……」
 ジャケットを脱ぐと、ブラウスのシミが目立つ。
 それが気になって、人の出入りがある場所でジャケットを脱ぐことを詩織が躊躇うと、警備員の表情が一気に険しくなる。
「なにか不都合でも?」
「神崎……」
 突然のことに驚き、ことの成り行きを見守っていた生駒が戸惑いの声を漏らす。
 自分たちを見送りにきたSAIGA精機の社員も、心配そうな顔をしている。
 これ以上、ここでこれ以上揉めても、戸惑いが増すだけで誰の利益にもならない。
「……どうぞ」
 詩織は小さくため息を漏らし、ジャケットを渡した。
「失礼」
 形だけの断りを入れて、警備員は詩織のジャケットのポケットを探る。その動きには迷いがなく、なにか確証があるように見えた。
 周囲の視線を受けつつ詩織のジャケットを探る警備員の手が、不意に止まった。それと同時に、彼の眉間に深い皺が刻まれる。
「これは?」
 そう言ってポケットから引き抜かれた警備員の手には、小さな何かが握られている。
 細く小さな銀色のそれは、女性の小指の第二関節程度の大きさしかない。
 ――なに?
 ジャケットのポケットになにかを入れていた記憶がない詩織は、彼が持つそれに目を懲らす。
「USB?」
 隣に立つ生駒が呟く。
 彼のその言葉で、詩織も警備員の彼が手にしてるものがUSBであることを理解した。
 理解すると同時に、背筋に冷たいものが走る。
 多くの特許技術を保有しているSAIGA精機では社内での携帯の使用を控えるよう言われているくらいだ。USBなんて、無断で持ち込んでいいはずがない。
 詩織だってそのことは十分承知しているし、そもそも、そのUSBに見覚えがない。
「どうして……?」
 わけがわからず混乱する詩織の脳裏に、蘇る光景があった。
 さっき、コーヒーのシミを取るために通された会議室で、詩織では貴也に相応しくないと話す静原は、詩織のジャケットを手にしていた。
 あの時は、ノンブランドのジャケットを着る詩織をバカにするための行動だと思っていたけど、彼女の真の目的はここにあったのだ。
「……」
 これまでだって、彼女の言動に、社会人とどうかと思うところは多々あった。
 そんな彼女が、詩織をおとしめるために用意したUSBの中身はきっとろくでもないものなのだろう。
 詩織の予想を裏付けるように、徐々にできつつある人だかりの向こうに、こちらを見て笑う静原の姿があった。
 その表情に、頭の芯が熱くなる。
「神崎……」
 状況についていけていない生駒が、掠れた声を漏らす。
「私は、やましいことはしていません」
 わけのわからない状況に一度は背筋が冷たくなったが、これが静原の嫌がらせだとわかれば、逆にあまりの怒りに冷静さを取り戻すことができる。
「とりあえず、別室で少しお話を伺ってもよろしいでしょうか?」
 険しい表情で警備員に移動を促され、詩織は頷いた。

 警備員の案内を受け、詩織と生駒は先ほど顔合わせをした会議室へと戻された。
「おい……神崎、これはどいうことなんだよ?」
 二人を誘導した警備員が監視を受け、責任者の到着を待つ生駒が弱気な声を漏らす。
 全てがとばっちりでしかない彼には、本当に申し訳ない。
 ただ責任者の到着を待つ短い時間で、この状況の全てを説明するのは難しいので、「私は無実です」と短く告げる。
「それはわかってるよ」
 短い詩織の言葉に、生駒も短く返す。
 間髪入れず返された言葉に驚いて視線を向けると、生駒が真剣な表情で付け足す。
「神崎の仕事ぶりは、新人教育の時からちゃんと見てきた。真面目で愚直でズルがない。だからこそSAIGA精機の後任をお前に任せたんだ」
「ありがとうございます」
 生駒の言葉に、目頭の奥が熱くなる。
 詩織が深く頭を下げたとき、硬いノックの音が響き扉が開いた。
 入ってくるのは、険しい表情をした少し中年の男女が二人。そしてその後ろに、静原が続く。
 貴也の姿がないことに、わずかな焦燥を感じるけど、詩織が主張することは変わらない。
「警備の者から、簡単に説明を受けていますが、そちらの女性社員方が、無許可での持ち込みを硬くお断りしている外部記憶装置を持たれていたとのことですが?」
 詩織と生駒と向き合う形で席に座るなり、男性の方がそう切り出す。
 そしてテーブルの中央に置かれたUSBへと視線を向ける。
 詩織のスーツから発見したUSBは、他のものとすり替えていないと証明するためにか、詩織たちがこの部屋に通された時から、テーブルの中央に置かれている。
 警備員が見守っているので、もちろん詩織たちにもすり替えることはできない。
「弊社の静原の話によりますと、そちらのKSシステムの女性社員の方がブラウスにコーヒーを零したので、汚れを落とすために洗面を借りたいと話たため、その案内をしようとしたと……」
 事実確認をするためか、ゆっくりした口調で女性社員が話すと、その言葉を引き継ぐように静原が口を開いた。
「ええ、最初は女性用トイレにご案内しようとしたのですが、誰が来るかわからない場所ではいやだとそちらの神崎さんが仰ったので、使用されなかった会議室にご案内しました」
「その動きは防犯カメラでも確認してあります。もちろん、使用許可の下りていない会議室に社外の者を通した弊社の静原にも落ち度はありますが、その静原が、神崎さんに頼まれぬれたタオルを準備し戻ってくると、貴女が会議室のパソコンに触れているのを目にしたといことで、不審に思い警備のものに報告したということです」
 女性社員が静原の言葉を引き継いで端的に説明する。
「会議室へと誘導したのはそちらにいる静原さんで、私から希望したことではありません。防犯カメラの画像があるのでしたら、その時の会話をご確認していただけませんか?」
「申し訳ありませんが、防犯カメラにマイク機能は搭載されておらず、映像で確認できるのは、お二人の動きのみですので」
 防犯カメラの画像があるのならと意見してみたが、二人のやり取りで無実を証明するのは難しいらしい。
「そしてその防犯カメラの映像には、大変申し上げにくいのですが、会議室に一人残された貴女が廊下に顔を出し、周囲に人の気配がないのを確認してすぐに部屋の扉を閉める姿が映っていました」
「あっ」
 男性社員の言葉に、思わず声を漏らしてしまう。
 詩織には、彼が言うその光景に思い当たる節がある。
 一人会議室に取り残された際、閉じ込められた野ではないかと不安になって、扉が施錠されていないか確認するついでに、周囲の状況を確認した。
 そして廊下に人の姿がなかったからこそ、あらぬ誤解を招かないようと会議室に首を引っ込めたのに、その動きがあらぬ誤解を招いている。
 そして、何気ない動きがあらぬ誤解を招くという状況は、今も続いているのだろう。
 思わず声を漏らした詩織の動きに反応して、女性社員の眉がピクリと大きく跳ねた。
「申し訳ありませんが、こちらとしては色々な可能性を疑わざるを得ない状況が揃いすぎています」
 女性社員のその言葉に、静原が密やかに笑う。
 彼女と肩を並べてSAIGA精機の社員には見えないが、詩織の隣に座る生駒にはその表情を見逃さない。
 彼女に視線を向けて奥歯を噛む。
 詩織も悔しさに机の下で拳を握りしめるけど、ここであきらめるつもりはない。
「でしたら、そのUSBの指紋を確認していただけませんか? それは私の私物ではありませんし、どうしてそれが私のスーツのポケットに入っていたのかはわかりません。その証拠に、そのUSBから私の指紋が検出されることはないはずです」
 こんなバカげた嫌がらせに屈しない。
 詩織は静原へと視線を向けて続ける。
「そしてもし他の誰かの指紋が検出されたのであれば、それに付いている指紋の持ち主に話を聞けば、多少なり判明する事実もあると思います」
 あの時静原は、手袋などは装着していなかった。
 逆にこのUSBを発見した警備員は手袋をしていたし、そんなものがポケットに入っていることを知らなかった詩織は、もちろん触れていない。
 だからそのUSBから指紋を検出することができれば、それは静原のものといいうことにある。
 やましいことがないからこそ、臆することはないと胸を張る詩織の姿勢に、静原を覗く二人のSAIGA精機社員の表情に戸惑いが浮かぶ。
 自分たちがなにか大きな勘違いをしているのではないかと気付いた二人は、どうしたものかと互いに目配せしている。
「本当に面の皮が厚いっ」
 静原が、大袈裟に息を吐き、首を横に振った。
 ひどく芝居がかった仕草だけど、華やかな容姿の彼女がやると様になる。
 周囲の視線が自分に集まっているのを確かめて、静原が続ける。
「指紋が付いていないって、そんなのポケットにしまう前に拭き取ればいいだけの話でしょ。それなのに、偶然触れた誰かに罪をなすりつけようとするなんて」
 そう話す静原は、何気ない仕草で腕を伸ばして、テーブルに置かれていたUSBをヒョイと持ち上げる。
「あっ!」
「こんなふうに、何気なく触れた私の指紋が検出されたら、貴女は私を犯人に仕立てるつもりなのかしら」
 彼女の思いがけない行動に思わず目を見開く詩織に視線を向け、静原は持ち上げたUSBを見せびらかすようにヒラヒラと揺らしながら視線を生駒に向けた。
「そもそもKSシステムさんは、自分たちの会社が、神崎テクノに利用されていることに気付いていいらっしゃる?」
「……?」
 突然出てきた神崎テクノの名前に、詩織と以外の面々が不思議そうな顔をする。
 彼女の真の狙いを理解して一人表情をこわばらせる詩織を見て、静原はニヤリと笑う。
「そもそも私が、社の規則をおかしてまで神崎さんの要望を通したのは、彼女が神崎テクノのご令嬢だったからです。社長より、特別な便宜を図るよう支持を受けていることもあり、そのような対応をさせていただきました」
「へ?」
 静原の言葉に、生駒は間の抜けてた表情を浮かべる。
 一社員として詩織に接してきた彼には、なにか奇妙な冗談を耳にしたような顔で詩織の表情を窺う。
 そんな生駒の視線を頬に感じたけど、今はそれに応える余裕がない。
「あら、同僚にも自分の素性を隠してたのね」
 生駒の反応から状況を察した静原が言う。
 確かに詩織は、ずっと職場の人間に自分の素性を隠していた。なにもそれは、やましいことがあってのことじゃない。
 社長令嬢ではなく、神崎詩織個人として、自分を評価してほしくてそうしただけのことだ。
 ただそれだけのことを、静原はさも犯罪行為のように取り扱う。
「私の仕事に、神崎テクノは関係ありません」
「どうかしら? それはこのUSBの中身を確認すればわかるんじゃないかしら」
 静原は、詩織の主張を鼻先であしらう。
 ――絶対、神崎テクノに不利な情報が入っている。
 静原の狙いは、詩織をおとしめるだけでなく、SAIGA精機と神崎テクノの業務提携を解消させることにあるのだろう。
 さっき会議室で詩織に「貴女なんか、専務に相応しくない」と断言した静原は、意味深な表情で「警告はしてあげた」と捨て台詞を残していた。
 そしてその宣言どおり、彼女の警告を聞き入れなかった詩織を罠に嵌めようとしている。
 二人の仲を引き裂くためだけに、SAIGA精機と神崎テクノの業務提携を解消させようとしている静原が許せない。
 ――それが、どれほどの人に迷惑をかけるかわからないの……
 悔しすぎて泣きたくなる。
 下唇を噛んでこみ上げるものを堪える詩織に、気をよくしたのか、静原は勢い付く。
「そもそもKSシステムみたいな弱小企業に、ウチが業務委託すること自体おかしいんです。専務と、こちらの神崎テクノの社長令嬢には以前から面識があるそうですから、彼女が強引に専務に契約を迫り、ビジネスで繋がりのある神崎テクノの社長令嬢の頼みを断り切れない専務としては、承諾するしかなかったのではないでしょうか?」
「違っ」
 貴也がKSシステムとの契約を決めたのは、生駒の営業努力と、KSシステムの技術力に納得してくれたからだ。
 だけど詩織がそう反論するよりも早く、生駒が言葉を続ける。
「それさえも公私混同も甚だしいのに、それはきっと、神崎テクノの計画の一端に過ぎないのでしょうね。……神崎テクノと無関係なふうを装って弊社に潜り込み、どんな情報を盗み出したのだか」
 勝ち誇ったように話す静原は、もったい付けるようにUSBメモリーを振る。
 揺れるUSBメモリーに周囲の視線が集まるのを確認して、ニッと口角を上げる静原の表情は、美しいのに醜悪だ。
 こんな人に、仕事も恋も邪魔されたくないと思うのに、あらがい方がわからない。
「……」
「全ては、このUSBに納められている情報を確認すればわかることですが、内容によっては、神崎テクノとの業務提携も打ち切る必要があるかもしれませんね」
 チラリと詩織に視線を向け、嘲笑う静原の表情に背筋が冷たくなる。
 
 ざわざわと足下から言い様のない恐怖がこみ上げてきて、指先が震えてしまう。
 もし今、SAIGA精機との業務提携を打ち切られたら、やっと体勢を立て直しつつある神崎テクノや詩織の家族ははどうなるのか。
「……」
 自分を見下ろす静原に自分の震えを悟られないよう、詩織は拳を強く握り込む。
 それでもこちらの緊張が滲み出てしまうのか、目が合うと静原の笑みが醜悪さを増す。
 こんな女性に負けたくないと思うのに、どう戦えばいいのかがわからない。
 自分の不甲斐なさに泣きそうになった時、部屋にノックの音が響いた。
 コンッ コンッ
 硬い音が二回響いたかと思うと、返事を待つことなく扉が開かれ、険しい表情をした貴也が部屋に入ってきた。
 貴也の後ろから、もう一人、小柄で恰幅のいい男性が続く。
 ――貴也さん
 心の中で彼の名前を呼ぶ詩織の向かいで、静原が声を漏らす。
「専務どうしてここに……」
 やけに緊張した声から察するに、貴也がこの場所に現れたことは、彼女にとっても驚くべきことだったらしい。
「終日視察の予定だったが、受付にいた社員から父が気になる報告を受けたと連絡を受けてな」
 貴也は、感情を感じさせない平坦な声で自分がこの場所に現れた理由を説明して、無言で室内を見渡す。
 その眼差しは、声と一緒で感情を感じさせな平坦なものだった。
 USBを手に固まる静原を見やった貴也は、次に詩織へと視線をむける。でもすぐに、詩織の隣の生駒へと視線を移して言う。
「状況に付いては、おおむね警備の者から聞きました。USBの内容の含め、このような自体を招いた経緯について社内で一度精査させていただきたく思います」
 そう話す貴也の傍ら、彼と一緒に入室した男性がテーブルに腰を下ろし、手にしていたパソコンを立ち上げる。
 無駄のない動きでパソコンを添いさする彼の動きを横目で窺い、貴也が生駒に言う。
「全ての事実確認が終わるまで、KSシステムさんには別室にてお待ちいただいてもよろしいでしょうか?」
「承知いたしました」
 立ち上がる生駒は、自分のスマホをテーブルに伏せておく。
 そのついでといった感じで、ズボンのポケットからハンカチを取り出し、ポケットを裏返してそこに何も入っていないことを証明する。
「荷物は全て置いていきますので、確認したものがあれば、勝手に調べていただいて結構です」
 穏やかな口調で話す生駒から、怒りの感情は感じられない。
 自信や詩織の身を潔白を信じているからこそ、落ち着いて踏むべき手順を踏んでいくという感じだ。
 それにもちろん、これまで商談を進めていきた中で、貴也たちと築いた信頼関係があってのことだろう。
 チラリと見上げると、生駒は詩織に大丈夫だと頷く。
「……っ」
 頷きを返した詩織は、生駒を真似てスマホを始めとした荷物を全てその場に残して会議室を出ることにした。
 会議室を出る際、案内を他の社員に任した貴也が、戸口まで見送ってくってくれた。
 扉を押さえてくれる貴也は、部屋を出て行く詩織にそっと「大丈夫だから」と耳打ちをする。
 そんな彼を見上げ、詩織は無言で頷いた。
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