がらんどう

恋の終わり

恋の始まりが些細な事の積み重ねだったら、その終わりも同じようなものなのかもしれない。今の5月の陽気ように春をゆっくりと終えるように。
いつ終わるかわからない物を切り捨てるには、あまりにも私は歳を取っていたし、過ごした月日が長すぎた。
先に不安があったとしても、私はきっちりと精算しなければならなかったし、逃げずに向き合うべきだった。
引き伸ばし続けた恋の期限は、私の時間を奪い続けた。

私が聞きたくないものを聞いてしまったのは、たまたま、運悪くだった。

「アイツ、本当に生意気だよな。東田」

「ズケズケ物を言うし、この前も……」

仕事の休憩時間、喫煙室の近くを歩いていたらそれは聞こえてきた。
聞き覚えがあるのは同期も含まれているからだろうか、そこに「東田」という、私の苗字が聞こえたので思わず引き返そうとした。悪口をわざわざ聞く必要なんてないからだ。

しかし……。

「東田って女として終わってるよな。結婚もしないし、35過ぎたら女として腐りだすんだよ」

そう言ったのは同期で同じ企画部の音川で、彼は私と同い年だ。

「だから、腐る前に慌ててみんな必死になって結婚するんだ。アイツには無理だったみたいだけどな」

その言葉に、ズキリと鈍く胸が痛んだ。
可愛げがない。お前は黙って笑ってろ。は、入社した、当時から同期に言われ続けた事だ。
『あいつは胸が大きい』『すぐにやらせてくれそう』酒の席でそれを話題に出す同期に私はついていけなかった。
笑って流す事が出来なくて、目の敵にされて雰囲気は伝染して同性からも遠ざけられるようになった。

「彼氏いても、っていうか、遊ばれてるのも気付いてなさそう。つまみ食いして捨てるのかもしれないけどな」

「もう、そんな時期も過ぎただろう」

「酷いな。椙山、でも、違いない」

「アソコに蜘蛛の巣はってそう」

ケラケラと笑う声に、私は、虚しくなった。
「もう、そんな時期も過ぎただろう」と言ったのは、交際している椙山隆だ。
強がって言ったのか、事実そう思っているのかわからない。一緒になって悪口を言われて気分の良いものではない。

最近、彼と若い女子社員が二人で出歩いているという噂を聞いたことがある。

「いや、その点、若い女の子はいいよ。いい匂いがするし、肌がいい」

椙山の声が無機質に耳の中に響く。
あの噂は本当だったのだろう。信じたくなかったけれど、一気に現実を突きつけられたような気分だ。
別れは覚悟していた。それなのに、こんなに辛いのは過ごした月日が長かったからなのかもしれない。
結局、彼も女は若い方がいい。と、思っていたのだ。

「水森さん?」

「そう、本当に可愛いいんだよ」

椙山は、きっと思い出してニヤケ顔をしているのだろう。そんな気がした。
営業部の彼は人当たりも良くて、見た目にも気を遣っているので、女性社員から評判はいい。
音川や気の許した相手にはこういう話はするが、それ以外では品行方正で通っているし、私の前ではそんな事を一切話はしなかった。
だから好きだったんだけど……。

「若い女の子っていいよな。俺なんて嫁が同い年だからどんどん劣化していくぞ、子供が大きくなったら絶対に捨ててやる。年取った女は産廃だ」

音川の声で私の心は冷めていく。
結局彼らは、自分達も同じように年を取る事には目を向けずに、異性を責める事しかできないのだ。
産廃の私は椙山に捨てられたのだろう。若くて可愛い女子社員という恋人ができたから。
そこに、一人の女子社員が私の後ろから駆け抜けて喫煙室の扉を開いた。

「椙山さんっ!」

「あ、水森さん」

どうやら彼女が水森のようだ。

「ねえ、行きましょう?」

「あぁ、行こう」

「あ……」

喫煙室から出てきた二人と私は鉢合わせした。
驚いた顔をしたのは椙山だけで、水森はそれを不思議そうに首を傾けて見ていた。その華奢な腕は椙山の腕に絡んでいる。
若いと言うだけあって、彼女はくすんだ私の肌とは違い透明感のある瑞々しい肌をしていた。顔立ちも目が大きくて低めの鼻がとても愛らしい。

確かに可愛い。腐り出した女と比較するなんて烏滸がましいくらいに、椙山が彼女のことを好きになるのがよくわかる。

だからこそ、私は詰め寄る事ができなかった。そんな事したらあまりにも無様だ。
それに、私達の関係は誰も知らない。だから、今は見なかったことにしよう。

「……」

二人に軽く会釈してその場から去る事にした。

終わったな。
私はかつての椙山との楽しかった日々を思い出した。
付き合いは10年近くだった。長くなりすぎて、5年くらいは馴れ合いのような関係に変わっていた気がする。

『お前の部屋ってなんかホッとするんだよな。いつ来ても綺麗に片付いてるし、美味い料理も出してくれるし』

そう言われていつ来るかわからない椙山のために、何か用意して部屋で待っていた自分はとても滑稽だったと思う。
いいように利用されていただけなのかもしれないのに。

『お前、いい嫁さんになるよ。俺の』

頬骨がやや出た顔の輪郭、垂れ下がった目がそう言いながら細められた。
会社では年相応に落ち着いた、彼が穏やかに笑う姿が何よりも好きだった。

結婚したかったわけではない、もっと愛されたいとか、そんな思いなんてなかった。知らない間に欲張りになっていたようだ。
時間は人を変えると言うけれど、彼はこの短期間で変わってしまったように思える。

「馬鹿みたい」

考えてみれば、週に一回は確実に部屋に来ていたのに、今は月に一回来るか来ないかに変わっていた。
もしかしたら、私との別れ話すら忘れて、食べ頃の可愛い女の子と一緒に過ごすのが楽しいのかもしれない。
別れの気配を本当は何となく察していた。考えないようにしていただけ。傷つくのは辛いから、見て見ぬふりをしただけだ。

ガラン。と、身体にぽっかりと穴が空いたような気がした。

別れ話をする価値もないと思ったのか、それとも、私に別れ話をするのに良心が痛んだのか……。

どちらにしても最低だけれど。

私は別れの苦みを噛み締めながら、引き攣った笑みを浮かべた。涙を流すのは家に帰ってからにしよう。

そして、数日後、思いもよらない事が起こった。
「少しいいかい?」と部長の林に声をかけられて、私は部長室に向かった。
部長の林は半年前に、異動でこの企画部にやってきた。年齢は40代くらいだろうか、定年になった前任の部長とは違いクールな印象を持っていた。

「企画支部に研修に行ってもらいたいんだが」

『企画支部』という単語に私は目を見開く。あそこは優秀だが、何かしら問題を起こした人材が行く場所。という、噂のある場所だ。
あくまで噂であって私はそれを信じていない。
しかし、あそこで半年間の研修ができたら人の上に立つ事ができると上層部は考えているようで、なんでも、「問題のある人間を上手に扱えれば上司として一人前」らしい。
失礼極まりない言い分だと私は思うけれど。

「研修ですか?」

「ああ、前に課長代理の音川くんに行ってもらったけど、君には一度も声がかかった事はなかったよね」

確かに、幹部候補として音川は以前、企画支部に研修に行ったことがあった。彼はそれからすぐに係長になって、今はその役職のまま課長代理をしている。
今回は、なぜ私に声をかけたのだろう。
前任の部長や三ヶ月前に産休に入った課長から嫌われていて、私は出世街道から外れている。
今の主任という地位も年齢ゆえになれた物でしかない。

「ええ、そうですね。でもなぜ私に?」

「私は、誰にでも平等にチャンスがあるべきだと思ってる。だから、君に声をかけたんだけどね」

部長は、前任の部長とは違い贔屓は一切しない。
これは、そう思うとこれは最後のチャンスかもしれない。
椙山を忘れる事と仕事上でのステップアップのだ。もう年齢的にこの地位にいる事や、結婚や出産に期待を持つ事はできない。
運がよかったら今よりも出世するかもしれない。
そう思うと、絶対に研修を受けるべきだと思った。
受けなければもう私にはなにも残されない。

「お受けします!」

私が勢い余って大きな声で返事をすると、部長は驚いた顔をして、クスリと笑った。
クールで笑わない人だと思ってたけど、笑うんだ。この人……。

「頑張りなさい。研修は、10月からです」

部長は、私が研修を受け入れることをわかっていたかのように声をかけた。
鼻息を荒くしてデスクに戻ると、音川がにやけた顔で声をかけてきた。

「お前、研修受けるのか?」

私と部長だけの話なのになぜ、彼はそれを知っているのだろう?不思議に思いながら私は肯定した。

「ええ、まあ」

「どうせ無理だよ。三日で戻ってくるんじゃねぇの?」

馬鹿にするような言葉に、私は少しだけ悲しくなって俯く。確かにうまくいく保障はない。向こうの社員は優秀で仕事についていけるか自信はなかった。

「やめちまえよ。どうせ、うまくいかないんだから」

音川は、私の不安を煽るような言葉を連ねる。
普段なら私は俯いてやり過ごしていた。

「どうなるかわからないけど、できる限りの事はしてくるつもり」

にっこりと笑って返すと、音川は、悔しそうに唇を噛み締めて、それを隠すように軽薄そうな笑みを作る。

「どうせ、なんの身にもならねぇよ。頑張ったって無意味だ。じゃあな、死ぬ気で出世から外れた若い男の尻でも追いかけておけよ。相手にもされないだろうけどな」

音川は吐き捨てて私の前から去っていった。きっと、研修出ることが気に食わなかったのだろう。
しかし、なぜ、彼はそんなことでこんなにもピリピリとしているのだろう?

「東田さん」

不思議に思っていると、隣の席の私と同じ主任の牧野が声をかけてきた。
彼女は私よりも歳下の29歳だ。主任の役職になったのは2年前で、仕事も随分と慣れて落ち着いている。

「どうしたの?」

「研修行くんですか?」

どうやら音川の声がばっちりと聞こえていたようだ。同じ主任という立場上、私がいなくなってから彼女に負担をかける事も考えられるので、否定するのもいやらしいから素直にそれを認めた。

「うん、心機一転して、アパートも引きはらって引越するつもり」

「音川さん、ああ言ってるけど、気にしなくていいと思います。頑張って」

牧野は私の背中を押すように微笑んだ。

「ありがとう。少し迷惑かけるかもしれないけど、頑張ってくるね」

「応援しています」

主任同士で仕事上の会話はするけれど、こういった話をしたことがあまりなかったことに私は気がつく。
もしも、逆の立場だったら私は牧野のように快く送り出せただろうか。
きっと、先を越される事を複雑に思いながら送り出したに違いない。

「ありがとう」

次はきっと、彼女にチャンスがあるはずだ。自分よりも先に出世したとしても私は恨んだりしないようにしよう。


そして、月日は流れて9月が終わった。

「決めてしまえば案外早いものね」

私は独り言ちて荷物の入ったバッグを持った。
半年間は、失恋を断ち切るにはちょうど良いかもしれないが、部屋を開けるには微妙な長さだ。
私は悩んだ結果。物件探しなど面倒になる事も込みで、気分を変えるためにアパートを引き払う事にした。
家具や家電は全て引越し業者が持っていってくれて、今から新しい場所に向かう。

何年か住んだ部屋は何もなくて、そう、私の心の中のようにがらんどうだった。
椙山はあれから一度も私の部屋に来ない。それが、全てを物語っていた。
何もない。つまらない、空っぽの私はもう、何かに満たされることはないだろう。
この空っぽの部屋を出たとしても、私には何も新しいことなど起こるはずがないと思っていた。
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