がらんどう

逃げた先

そして、研修初日。

「問題さえ起こさなければ、何も言うつもりはありません」
企画支部長の的場に、そう言われて私は少しだけ面食らう。新しい職場では、とりあえず数人の部下をつけてくれるそうだ。

「今日から、半年間よろしくお願いします」

挨拶をすると、皆、目を合わせてはくれないけれど、手を止めて軽く会釈はしてくれた。
とりあえず触りとしては問題ないと思う。無視されるよりもずっとマシだ。
雰囲気は悪くなさそうね。良くも悪くも他人に無関心と言った方が正しいのかもしれないわ。

とりあえず。悪い人達ではなさそうで良かった。

挨拶を済ませると私はほっとして胸を撫で下ろす。

そこに、一人の背が高いけれど猫背で、分厚いメガネをした青年。茂木と名乗ってくれた。が「あの」と声をかけてきた。

「男性が来ると思ってました」

茂木は、私の顔を見るなり笑った。
他の社員もどこかばつの悪そうな顔をして俯いていた。
それが、女だからいけない。という、意味にとれて私は目を伏せた。女の上司はやりにくいのかもしれない。
もしかしたら、私が来て落胆したのかもしれない。

「やりにくかったら、ごめんなさいね。言いにくい事でも言ってくれて構わないから」

私が嫌でも向こうは半年間は我慢してもらわないといけない。
「ごめんなさいね」と、さらに謝ると茂木は自分の失言に気づいたのか、慌てて、首を横にブンブン振った。

「あ、あの、違いますからね。その、東田さん、たくみさんって名前じゃないですか、同じ名前の友達が居てだからつい……」

確かに名前でよく、男と間違えられたことは何度もあった。考えればわかることなのに、少しのことで過敏になっていたようだ。
女だから、という理由だけで、馬鹿にされる事に慣れすぎたのかもしれない。

『35過ぎたら女は腐りだす』

同期の言葉が頭の中で再生されて、思っていた以上に傷ついていたようだ。

「ああ、そうなの」

「中性的な名前だから勘違いしてました。その、悪意があったわけじゃないです」

茂木の言葉に同僚もこくこくと頷いていて。
どうやら、名前で男と勘違いされていたようだと気がつく。

もっと、女の子らしい名前をつけてくれたら良かったのに。「リカ」とか「さやか」とか、どの性別でもいいからという理由で「拓実」と私に名前をつけた両親に少しだけ腹が立った。

「気にしてないわ。大丈夫よ。よく男性と間違えられちゃうの」

ふふふ。と、気にしてないと声を出して笑うと、茂木はじいっと私の顔を様子を窺うように見ている。

「半年間よろしくね。こんな感じで話しかけてもらえたら嬉しいかな」

「はい。困ったことがなくても話しかけます」

そう言った茂木は性格は悪くなさそうで、仕事がしやすそうだと思った。

そして、その予感は当たった。
茂木という男は優秀というよりも、仕事のやりやすい男だと私は思った。
大きな失敗もしなければ、出来ないことは絶対にしない。問題も抱え込まないですぐに相談できる。
仕事ができてもこういう事ができないと、それは、それで、やりにくさがある。
プライドもそこまで高くないので、間違いもちゃんと認められる。年齢は、28歳だと本人は話していたけれど、どこか頼りない雰囲気のせいか少しだけ幼く見えた。

『お客様』という、対応を少なからず感じるけれど、新しい部署はとても居心地が良かった。

けれど、部署に慣れて一ヶ月過ぎると、別の問題が浮上してきた。
帰ると何もする事がない。休日も同じだ。

異動を決めた少し前は、椙山が別れ話をしに来るかもしれないと何かしら気を張っていた。研修に行くために荷物の整理をしていたのもあってそれなりに忙しかった。
しかし、今はそれもなく念入りに家事をしたり、時間をかけた料理を作ってみたりするけれど、虚しさが返って増してきた。

「別れの重みを今更感じているなんて」

すぐに忘れるつもりだったのに、少しだけ時間がかかりそうな気がした。
特に土曜日の朝は虚しい。どうやって時間を潰した方がいいのか、それだけで途方に暮れそうになる。
ぼんやりと真っ白な天井を眺めていると、着信音が聞こえた。

私は誰だろう。と、考えながら画面を見ると、茂木と表示されていた。
今日は休みなのにわざわざ電話してきたという事は、何かトラブルでもあったのだろうか?
不安になりながらそれに出た。

「もしもし」

『あ、東田さん。すみません。月曜日に手渡しする予定の資料に不備があって……、その、すみません。助けてもらえますか?』

「水曜日の会議に出す企画書用の補助的な資料よね?」

『そうです。企画書はちゃんとできたんですけど、資料作成で少し不備ができてしまって、申し訳ありません』

説明と謝罪を聞きながら、一人では修正が無理な事を察する。
不備がどんな不備なのか、まず、見て見ない事には手伝いようもない。彼がわかっている不備を口頭で説明してもらった方が良さそうだ。

「大丈夫よ。どこで会う?」

『あの、僕のアパートだとちょっと……』

茂木の申し出に私は驚く。アパートに行くつもりなんて全くないのだけれど、仕事の話をしているのに、変な意味で誘ってると思われたらやりにくくなる。
私は慌ててそれを否定した。

「その、アパートになんて行くつもりないわよ。図書館の個室を借りるのはどうかしら?」

『あまり、資料が紛失したら困る場所で会うのはちょっと』

茂木の言うことはごもっともだ、セクハラを考えると私のアパートにあげるのはどうかと思うのだが、彼はそこまで考えていないようだし、身構えなくても大丈夫だろう。

「わかったわ。私のアパートに来てちょうだい。場所は……。駐車場は……」

『わかりました』

「他に頼めそうな人に応援を頼んだ方が良さそう?」

『いえ、二人で大丈夫ですから!すぐに行きますから、待っててください』

茂木はそう言って電話を切った。
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