鏡と前世と夜桜の恋
季節は巡り、京はやわらかな春に包まれていた。
夕暮れ前の花街…

空を染める薄紅と、軒先に灯り始める行灯の橙が溶け合い、どこか夢のような色をしている。
三味線の音が遠くから流れ笑い声が重なる。今宵もまた、誰かの運命が売られていく夜が始まろうとしていた。
昼見世を終えた遊女たちはそれぞれの部屋で夜見世の支度に追われている。
小さな一室。
黒と白の地に、青のトルコキキョウが咲く打掛に袖を通した雪美は鏡の中の自分を見つめていた。そこに映るのは感情を削ぎ落とした冷めた表情の女。

「今日、私は初めての水揚げ、客の相手をするんだ… 」
胸元から懐中時計を取り出すと、まだ、わずかな猶予がある。
襖を開け、付き人に声をかけた。
「キリシマ、少し用があるから着いてきて」
男は穏やかに頭を下げる。
「初見世の刻限にはお戻りを… 」
「ええ、いつもありがとう」
「いえ、とんでもございません」
この街の遊女に自由はない。それでも、雪美には毎日向かう場所があった。
着物を脱ぎ、出歩ける格好に着替えた雪美は、キリシマと一緒に街へ向かう。
「いつものようにここで待っています」
私が毎日、どこに向かっているのか気にならないのだろうか?街に着けばキリシマはいつも着いて来ない。
微笑んだ雪美はいつもの団子屋に寄り、歩いて咲夜との約束の場所に向かった。
「… もう、いつになったら来るの!!」
徐々に日も暮れ、そろそろ店に戻らなければならない時刻… 持ち帰りで包んで貰った団子を橋の上で更に数本食べた雪美はキリシマと合流し店に1度戻る事にした。

「… もう1箇所行きたい場所があります」
打掛に着替えた雪美は、懐中時計を見てキリシマに言う。
「分かりました、また待っています」
キリシマと途中で別れた雪美は、少し歩き八重桜が咲くある場所に辿り着く。
「ここもまた見事… 」
ここの桜もまた雪美にとって大切な場所。
春の匂いが濃い。
花弁がひとひら、肩に落ちた。
「… 本当に見事だな」
背後からの声に時が止まる。
雪美が待ち続けた声。
ゆっくり振り返ると、そこにいたのは… 咲夜だった。
「さ… 」
名を呼びかけて、飲み込む。
ずっと会いたかった、列車で手を重ね合った以来、一度も現れなかった咲夜…

聞き間違えるはずがない。
ゆっくり振り返りそこにいたのは、1年待ち続けた愛しい男の姿。胸が焼けるように熱い、けれど飛び込めない。自分は売られた身… 鳥籠の中の女だから。
「ごめん。なかなか迎えに来れなくて… 」
昔と変わらぬ咲夜の微笑み。それが、なおさら雪美には残酷だった。