鏡と前世と夜桜の恋
夜は更けていた。
申又の屋敷には重たい静寂が落ちている。
岡っ引き達が咲夜を見失ったと蓮稀の存在は伏せ、報告に戻って来た後も、雪美は部屋の隅で膝を抱えたまま動かなかった。
頬の腫れも、腕の痣も痛んでいるはずなのに… 雪美の表情は不思議なほど静かだった。

障子の向こうから聞こえてくる申又の機嫌の良さが耳障りだった。
" これで咲夜を追い詰められる " そう思っているのだろう。
「愚かな男… 」
誰にも聞こえないほど小さな声が零れた。
雪美はそっと懐からある一通の文を取り出した、何度も読み返したせいで端は少し擦り切れている。
そこに書かれている文字を指でなぞる。
達筆で力強い筆跡、だがどこか不器用な優しさが滲んでいた。
思い浮かぶのは下手くそな笑顔と冷たいけど時に向ける暖かい眼差しは… 誰よりも静かで、誰よりも恐ろしい存在。
雪美が初めて恋心を抱いた相手
唇が微かに緩む。
「さくのことお願い… 」
彼の名前は口には出さず、だが心の中では何度も名前を呼んでいた。良かった、さくが様子を見に行ってからずっと気になっていた。良かった… 無事だったんだ。
文には多くは書かれていない。
けれど十分だった。
あの人は生きている。
そして助けようと動いてくれている。
さくのこと、私も助けたい…
長く。
静かに。
そして確実に。
守りたい。
障子の向こうで夜風が鳴る。
まるで遠く離れた誰かが笑ったようだった… 雪美はそっと目を閉じる。
―― 大丈夫。
その時が来ればきっと全てが動き出す、きっと平凡で穏やかな生活が来る。
そう確信しながら。