鏡と前世と夜桜の恋
森の奥深く…

咲夜は荒い呼吸を押し殺しながら大木の陰にもたれていた。





肩で息をするたび胸が痛む。

追手の足音はもう聞こえない。

不気味なほど静かだった。

「… なんで追って来ない」

額の汗を拭いながら呟く。

咲夜は蓮稀が生きていること、蓮稀が動き出したことを夢にも思っていない。


追手は現れず、だが安心出来なかった… 雪美は恐らく申又の住むあの屋敷に。


咲夜は再び立ち上がり、申又の屋敷に… せめて一目だけでも良いから無事を確かめたかった。

約束した、必ず迎えに行くと。

屋敷の裏手まで辿り着いた咲夜は、そっと灯りの漏れる部屋に近付く。



襖越しに見えた影。

横になる申又とその傍に座る雪美。

雪美は濡らした手拭いを優しく額に当て、静かに世話をしていた。

まるで良き妻のように。

咲夜の心臓が強く脈打つ。


「ゆき… 」

咲夜は思わず声が漏れそうになるのを必死で抑える… 雪美は振り向かず、ただただ申又の世話をしていた。


申又へ向ける穏やかな仕草。

寄り添うような姿。

咲夜の胸の奥が冷えていった。

「なんでだよ… 」

拳が震える。

「約束したのに… 」

雪美は心中は違った。

雪美は申又を信頼させようとし、良い妻を演じることで警戒を解き、屋敷の中を自由に動けるようにする為の行動だった。


蓮稀が命を懸けて戦っている、ならば自分も戦わなければならない。

咲夜を守るため、真実を暴く

雪美は微笑んでいた。

本当は吐き気がするほど嫌なのに。

涙を飲み込んで必死に。

しかし、その決意を咲夜は知らない。

襖一枚隔てた向こうにある想いなど知る由もなかった。


見えたのはただ一つ

自分を待つと言った、約束したはずの雪美が別の男の傍にいる姿だけだった。


掠れた声。

「… 俺が遅かったんだな」

誰に聞かせるでもない言葉。

胸が潰れそうだった。怒りでも悲しみでもない、もっと静かで深い痛み。

信じたかった。

だが今の咲夜にはその姿が全てだった。
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