ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?
遠くで木菟が鳴いていた。

「痩せたね……」

裸の背中にそっと指先を滑らせる玲丞に、遠い夢の底からまだ浮かびきれない多恵は、長く息を吐いた。

「傷のこと、コタ君が心配していた」

俯せの顔をゆっくりと横向ける多恵に、肘を枕にした玲丞が微笑んだ。

「多恵が結婚しないのは、背中の傷のせいかもしれないって」

「バカね……」

多恵は口元だけで笑った。

袈裟懸けに走る傷痕は、幸い着衣の上からは見えない。医者には、後遺症の心配もなく、いずれ成長すれば薄れるだろうと言われていた。
けれど、ことあるごとに静枝が喉を突きそうな勢いで謝るものだから、なるべく見られないようにしていた。
他人と風呂に入るのは嫌いだから、別段障りはなかったけれど、さすがに気が引けて初体験が遅れたのは否めない。

そのことで傷を残しているのは、むしろ静枝と航太の心の方だ。ふたりともバカがつくほどやさしい。

「気にするほどの痕じゃないって、教えてあげた」

「コタに?」

「うん」

悪びれない玲丞に、多恵は呆れたと軽く睨んだ。それでは弟にふたりの関係を明かしたようなものだ。

「どうしていなくなったの?」

玲丞の指が、まるで海の生物のように多恵の指を絡め取る。
多恵は、この指が好きだった。ときに優しく愛撫してくれたり、ときに烈しく蹂躙したり、いつも癖のように髪を撫でてくれた。細く長い、ピアニストのように繊細で温かな指だ。

そういえば、ジャズバーのマスターに担がれて、店の片隅のピアノを弾いてくれたこともあった。
Misty──。恋の始まりを描いたロマンテックで切ないバラード。
多恵を見つめながら歌い上げた甘い旋律が耳に蘇り、あの夜と同じ不覚にも目が潤んだ。

多恵はゆっくりと瞬きをすると、邪険に手を払い、寝返りを打って背を向けた。

「母が倒れて、ここに戻らなければならなかったから」

「突然? 何も言わずに?」

「突然じゃないわ。お別れの挨拶にマンションへ行ったのよ」

「広尾の?」

多恵は背中で頷いた。

「女の人が出たわ。きれいな声の」

「ああ……、兄嫁かな? あそこは彼女に譲ったんだ。一人になりたいときに使っていた部屋だったけど、僕には必要がなくなったから」

それから少し照れたように、

「一人でいるより、君といる方が幸せだから」

多恵はまったく信用のない目で、玲丞を一瞥した。

どこぞの御曹司でもあるまいし、あの高級マンションをセカンドハウスみたいに言うなんて、大風呂敷もいいところだ。
そのうえ兄嫁とは、もっとましな嘘をつけばいいのに。本当に嘘が下手なのだから。
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