ホテル ポラリス 彼女と彼とそのカレシ?
玲丞の素性を明かされたとき、「好きな男が敵方だったからといって正義を蔑ろにするのか」と怒る航太に、多恵は言った。
〈私、妊娠しているの。子どもの父親と争うことはできないわ〉
〈へっ?〉
そのときの航太をリプレイしたかのように、玲丞は放心状態で言葉を失っている。棒立ちのまま瞬きさえしない。
まさか、ショックのあまり息が止まったのか。心配になって、航太が声をかけようとしたとき、玲丞はまるで深海から浮かび上がったかのように大きく息を吸い込んで、そのままソファーへ腰から崩れ落ちた。
彼の頭の中では、様々なものが竜巻にとらわれた木の葉のように目まぐるしく旋回しているようだ。どこから手をつければよいのか整理がつかないのか、頭を抱えたまま一分ほど経って、ようやく彼は、ハッと顔を上げた。
「多恵は今、どこに?」
「その前に……お話しなければならないことがあります」
航太は、一度肩で息を吐いてから続けた。
「姉は、幸村本家の当主です。古臭い話かもしれませんが、彼女は、家名を守ることが自分の存在価値だと信じているんです。あのプライドの高い姉が、一族の前で土下座して誓いました。屋敷もホテルもカンナビも、すべて失ってしまったけど、最後に残された家名だけは絶対に守り抜くって。姉の実の母は、一族を裏切って家名を捨てていますから」
航太は次の言葉のために、小さく息継ぎをした。
「つまり姉は、生まれてくる子どもを、幸村の子として、一人で育ててゆくつもりなんです」
玲丞の顔から、興奮の色がサッと引いていく。
「何度も説得したんです。大切なものを全部奪われて、玲丞さんを赦せないのはわかるけど、子どものためにもう一度ふたりで話し合ってくれないかって。でも、まったく取り合ってくれません。どうしようもない意地っ張りなんですよ。ほんとは不安でいっぱいなのに、強がって平気なふりをしてる。せめて出産まではついていたかったけど、今、行かなければ、せっかくのチャンスを逃してしまうって、姉ちゃんに怒られて……」
「……それで、僕にどうしろと?」
予想外の冷たい声に、航太は狼狽えた。
真実さえ伝えれば、すぐに行動してくれると思っていたのに――。
その顔には、失望というより、怒りが滲んでいた。
「あ……、ですから……」
尻すぼみになってゆく意気地を取り返そうと、航太は勢い込んで頭を下げた。
「お願いします! 姉と会ってください!」
「先生、お時間が──」
痺れを切らした声に、玲丞はゆっくりと首を廻して頷いた。
そしてまた航太の方に顔を戻すと、数秒だけ思案し、視線を合わせることなく静かに立ち上がる。
「玲丞さん!」
「コタ君、今、僕が会っても、きっと多恵の気持ちは変わらない。彼女は、僕が僕自身を赦せていないことを、知っているから」