ホテル ポラリス 彼女と彼とそのカレシ?
オーベルジュのスタッフ再雇用の条件は、二ヶ月でのオープンと、開業準備を全てスタッフが行うこと。──どちらも無茶な要求だ。
伊佐山たちは新厨房の調整で手一杯なはずだし、オーベルジュの立ち上げには専門的な知識が不可欠で、本多には荷が重すぎる。本来ならコンサルを入れるべき案件だ。
手段はある。多恵が無償でサポートすればいい。
でも──妊婦の姿を、人前に晒すわけにはいかなかった。
シングルマザーであることを容認してもらう代わり、出産までは極秘にする。そう一族と取り決めている。そのために、佐竹の大叔父の元で隠居生活を送っていたのだ。
けれど、せっかく好待遇でみんなを雇い入れてもらった以上、失敗はさせられない。
致し方なく、伊佐山にだけ真実を明かした。
雪降る幸村家の墓前で、多恵の懐妊を知った伊佐山は、男泣きに泣いた。
さっそく気の早いベビー用品を買いに走ろうとする彼を止め、秘密厳守を誓約させた。それなのに、ささいなことでも身重の体を気遣って大騒ぎするから、いつバレるかとヒヤヒヤしたものだ。
もっとも、豊子を含む女性陣はとうに気づいて黙っていたのだろうけど。
特に勘のいい菜々緒は、妊娠時期から相手の見当もついたはず。ときおり向けられた哀れむような視線は、バイセクシャルで既婚者の元恋人と、勢いでセックスして妊ってしまった、というところだろうか。
ポラリス閉館後、見る間に大きくなるお腹を隠すため、本多たちとの連絡は、ボストンからのリモートを装って行っていた。
それを、伊佐山が毎日のように滋養のある食事を届けに来るから、多恵が山岡農園にいることなど、すぐに村中に知れ渡ってしまったのだ。
幸い、お腹の子の父親を訊ねる無粋者はいなかった。
だけど、菜々緒がいつ口を滑らさないとも限らない。何かの拍子にオーナーの耳に入ってしまったら──それこそ一番避けたい事態だった。
オーベルジュのオーナーは、玲丞と何度も通った〈蕎無庵〉の店主・タカだ。
亡き夫は往年の財界の大立て者。彼女自身、元裁判官、書家、陶芸家、そして美食家として名高い(らしい)。
伊佐山の師匠、亡くなった旅館ゆきむらの板長とは旧知の仲で、一時は引退を表明し、弟子たちの懇願にも多恵の説得にも頑として首を縦にしなかった伊佐山を、翻意させてくれたもタカだ。
そんな老獪な女丈夫を動かす説得材料として、玲丞は多恵の素性も詳にしただろう。
タカが無理難題を吹っかけたのは、多恵を引っ張り出したかったのだと思う。
せっかく〈ポラリス〉の名前まで残してくれたのに、期待に応えられず不義理をして、本当に申し訳ないとは思っている。