ホテル ポラリス  彼女と彼とそのカレシ?
3、幸村の姫様

1 『ポラリスは中里のものよ』

──優しいのはあなたよ。

サービスエレベータの壁に頭をもたれ、多恵は大きく溜め息を吐いた。

なぜ、今、再会してしまうのか。多恵は意地の悪い神様を呪った。
どんなに忘れたふりをしても、逢えばやはり心が乱れる。今は私事に動揺しているときではないのに。

──しっかりしろ!

両手で頬を叩いたとき、エレベータの扉が開いた。

「何? 蚊?」

キョロキョロ辺りを探す弟に、多恵は作り笑顔でお茶を濁した。

「遅いから様子を見に行こうと思ってたんだ。悪かったよ、それどころじゃないのに」

多恵の手からワゴンを引き継いで、航太はファニーフェースに似合わぬ大人びた表情で歩き出した。

日焼けした顔、筋肉がついて一回り大きくなった体、耳や鼻のピアスホールは今は使われていない。
彼もこの二年で、本当に逞しくなった。

「それで、どうだった?」

振り向けば姉を苦しめると思ったのだろうか、前を向いたまま航太は問う。
多恵は精いっぱい元気を装った。

「大丈夫、何とかするから」

「ごめん、オレ、なんもできなくて……」

慰め合っても何の解決にもならない。そんなことは百も承知だけれど、今は言葉が思いつかない。

「でも、あの家は売らなければならないわ」

「仕方ないさ」

航太はさばさばと言う。
よけいに多恵は次の句を言いかねた。

察したように航太は、

「母さんにはオレが話す」

「ごめん……」

「姉ちゃんが謝ることなんかない。あの家も本来は幸村のものなんだ。意識がはっきりしてなくて、かえってよかったよ」

航太は冗談めかして言うと、多恵の肩をポンと叩いて、パントリーへと消えていった。

──ごめんね、コタ。

静枝が亡くなれば、航太も天涯孤独になってしまう。
多恵を「姉ちゃん」と呼んではいるが、多恵と航太は血のつながりもなければ、戸籍上も他家の人間だ。

航太の実父は、彼の誕生を前に他界している。父方の親族とは一切付き合いがないようだし、母の静枝は孤児で身寄りがない。

実際、静枝が入院しても、誰一人見舞う者は訪れなかった。
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