ホテル ポラリス 彼女と彼とそのカレシ?
──昔からあんな人だったかしら……?
多恵はセラーの冷蔵庫の前で、額に拳を当てた。
十分に一度は笑顔を見せる、良くも悪くもおおどかなな人だった。
善良さが人相に滲み出ているし、お人好しだから、よく近所の商店街のおばさんに上手いこと乗せられて、蜜柑やら大根やらを買わされていたっけ。
一度、大量の生牡蠣を売りつけられて、ふたりしてお腹を壊したこともあった。
あんまりのほほんとしているから、心配になって注意したら、彼はやっぱりのほほんと笑った。
そんなことでは出世できないと意見したら、「出世ってそんなに大事なこと?」と、不思議そうに首を傾げた。
〈多恵は野心家が好きなの?〉
〈野心じゃなくて、向上心のある人が好きなの〉
〈でも、君は肩書きにこだわっている〉
〈肩書きがなければ、世間は女の私を認めてはくれないわ。どんなに優秀でも〝女のわりに仕事ができる〞で済まされて、男性上司の付属品のように扱われる〉
〈世間が認めなくても、僕は多恵を認めているよ。それだけじゃ、ダメなのかな?〉
──嘘つき。
そんなくさい台詞でも、当時の多恵には嬉しかった。
彼のふんわりとした優しさに包まれていると、何だかこちらまで穏やかな気持ちになって、虚勢を張って背伸びしている自分が、バカらしく思えた。
父が再婚したとき、多恵は心に鎧を着せたのだと思う。これ以上傷つかないように、自分の心は自分で守るしかないと悟ったからだ。
それは、さらなる孤独に連鎖したけれど、その鎧を自ら脱ぎ去る謙虚さは、生まれつき持ち合わせていなかった。
そんな膝を抱えて蹲るような多恵を見透かすように、玲丞はやすやすと垣根を越え、さりげなく頭を撫でてくれた。
気づくと彼は、多恵の心の肝心な処に住みついていた。
それなのに……。
多恵はいかんいかんと首を振った。
自分は、今夜の主役たちのために夏のディナータイムを優雅に演出する裏方──そう、私情を消して〝無〞になろう。
「よしっ」と気合を入れて、多恵は背筋をシャンと伸ばし、深呼吸をひとつした。