呪われし森の魔女は夕闇の騎士を救う
「ノエル様?」

 そんなエーリエの元に、ノエルは再びポーションの取引より前にやって来て、彼女にもう一冊古代語の単語帳を渡した。

「これは、魔法に関する単語も多く含むものらしい。父は魔法に関しての書物を読むつもりはなかったので、別所に置いてあってな」
「まあ、まあ、そうなんですね。助かります。いただいていた辞書や単語帳にない単語が多くて……お父様のものなのですね。わたしがお借りしてもよろしいんでしょうか」

 願ったりかなったりとは言うが、それは本当に今彼女が必要としていたものだった。

「借りているのではなく、君のものだ。父はもう完全に古代語を勉強することを諦めているしな。誰かが使ってくれればうれしいと言っていた」
「わたしでよろしいんでしょうか」
「もちろんだ」

 その言葉で、じんわりとエーリエの胸の奥が熱くなる。ああ、自分でも良いのか。なんだか彼女は、自分がノエルに選ばれたような気がして嬉しくなる。そして、ますます「これは古代語の書物を絶対に読めるようにならないと」と思う。

「わざわざ申し訳ありません」
「いや、今日は城下町のこちら側に用事があったので、本当にちょうどよかったのだ」
「そうなんですね」
「では……」

 帰る、と続けようとしたノエルだったが「うん?」と言葉を止める。エーリエも「あ」と声をあげた。ぽつぽつと雨の音がする。そして、それはあっという間に大降りになり、バチバチと家の屋根を打ち付ける。

 ノエルは腰に付けた道具袋からフードを出した。だが、それを被ってもびしょ濡れになってしまうに違いない。

 エーリエは生活魔法をかけますか、とノエルに問おうとした。彼女が使う魔法の中には、雨を弾くものもある。そう時間はもたないが、彼が森の外側で馬を待たせている場所に辿り着くことぐらいは出来る気がする。

 だが、エーリエはそれを言葉にしなかった。代わりに

「あ、あのっ……ノエル様、この雨は通り雨ですぐに去ると思います。ですから、雨が通り過ぎるまで、少しお待ちになったらいかがでしょうか」

 と尋ねた。ああ、言ってしまった。言ってしまった以上は、もう生活魔法をかけることは出来なくなってしまう……なんだか心臓がバクバクと大きな音をたてて、エーリエは自分がここで倒れてしまうんじゃないかと想像をする。そんな風に鼓動が大きく耳の奥どころか体全体に響くようなことは、これまでの人生でなかった。それほど、今の自分の発言は自分にとっては大きなことだったのではないか、と感じた。

「そうか。それでは、申し訳ないが少し滞在しても良いだろうか。ああ、君が古代語を学ぶなら、それはそれで良い」
「いえ、わたしも休憩をしようと思っていたので。お話相手になってくださると嬉しいです」

 そう言ってエーリエが笑うと、ノエルは「わかった」と答えた。こんなずるい方法で彼を足止めしてどうしようと言うのか。エーリエにはそれがどうしてなのかはわからなかったが、ただ、なんだかもう少し彼と話をしたいと思ったのだ。

 茶を出して、飲んでもらって。ああ、昨日焼菓子を焼いておいてよかった……そんなことを考えながら、エーリエは厨房へと引っ込んだ。

「そう言えば、先日もらった焼き菓子はうまかった」
「まあ! そうですか、お口にあったなら何よりです!」

 茶の準備をしながら、部屋を跨いで姿が見えないノエルと会話をする。

「十分に冷ましてから食べると、少し軽くなるんだな。君が言っていたように、焼きたてもうまかったが、時間を置いてからも違ううまさがあった」
「そうなんです。水分が飛ぶからでしょうね。一度、魔法を使って水分を飛ばそうとしたら、調節がうまくいかなくて、パサパサになってしまって……」
「はは」

 エーリエは驚いた。今、ノエルは笑ったのだろうか。聞き間違いではないだろうか。だが、すぐにノエルが別の話を始めたので、彼女はそれを尋ねることは出来なかった。

(ああ、雨があがらなければ良いのに)

 どうしてかと言われても、うまい言葉が見つからない。ただ、エーリエはもう少しだけノエルと話がしたかった。ただ、それだけのことなのだ……彼女はそう自分に言い聞かせるように「それだけのことよ」と思いながら、茶葉の瓶を開けた。
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