君が忘れてから僕は征きたい
新月
1944年4月。日本は戦争下にあり、日本軍によるインパール作戦が始まって、1ヶ月が経っていた。

木造建築の平屋が所狭しと並ぶ、商店街。もんぺ姿の人たちが、戦争下で生活が豊かでは無いが、穏やかな話し声や笑顔が溢れる、明るい商店街だった。そんな商店街から少し離れた場所に、開けた野原があった。小さい花が沢山、彩り豊かに咲く綺麗な場所。そこには大きなお屋敷があり、帝国軍の大将である城井大吉の邸宅である。邸宅を少し見下ろせる小高い丘には、木製のベンチがあり、青い無地のもんぺを着て、肩下まである髪を風に揺られて、本を読んでいる華奢な女性が座っていた。

「紀子さん、今日も楽しそうに本を読んでいますね」
そう声を掛けられた瞬間、紀子は振り向いた。
「立花さん!今日も会いにいらしてくださったのですか?」
満面な笑顔で紀子に話しかけた立花に言った。
紀子は帝国軍の大将である城井大吉の1人娘である。手足がすらっとしていて、花が咲くような雰囲気で満月のように明るく笑う女性だった。その笑顔から紀子を知る人物からは月読命(ツクヨミ)様と呼ばれていたりする。月読命様とは日本の女神様の1人である。そんな紀子は本の虫だった。今のように、ベンチに座り、風に揺らて届く花の香りの中で本を開くのが好きだった。

「紀子さんの笑顔が見たくて、毎日来てしまいます。今日はなんの本を読んでいるんですか?」
そう話しかけている立花は帝国軍の若き中尉だった。仕事熱心で上官からの信頼も厚い。それに加えて、紀子のように容姿端麗で、礼儀や言葉遣いが丁寧なことから、女性からも人気な存在だった。それが立花啓人だ。
立花と紀子は恋人同士で、2人が横を並んで歩けば、小説の中に飛び込んだ世界に周りが染まる。

「今日は大宰府先生の走れメロスを読んでいるの。素晴らしき友情が書いてあって…」
自慢気に小説のお気に入りの箇所を立花に話す紀子はとても楽しそうだった。
立花にとって、紀子が笑顔で小説の内容を自分に教えてくれるこの時間が愛おしくて仕方がなかった。仕事で疲れていても、辛いことがあっても、この時間だけは幸せだった。そして、いつの間にか、紀子の所を訪れて、小説の話を聞くのが毎日の習慣になっていた。

この2人の時間は戦争下とは思えないほど、穏やかで幸せだった。明日が来ることを保証されていない、この今だからこそ、1分、1秒、一瞬を大切に過ごしているのは決して、この2人だけでは無かった。
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