天妃物語 〜鬼討伐の条件に天帝の子を身籠ることを要求されて〜
「紫紺、どうですか? 進んでいますか?」
「うん。じょうずにかけるようになってきた。みろ、これがあたらしくおぼえたかんじ」
「上手に書けるようになりましたね。よく覚えました」

 まだ幼さのある文字ですが、それでも漢字がしっかり書けるようになっていますね。
 褒めると紫紺が照れくさそうに張り切ります。

「つぎはかんぶんをするんだ! こっちもじょうずになる!」
「ふふふ、楽しみです。あなたは立派な殿方(とのがた)になるのでしょう。ここにお茶を置いておきますからね」
「ははうえ、ありがとう!」
「頑張ってくださいね」

 私は紫紺に優しく笑いかけました。
 漢字の練習をする紫紺をじっと見つめていたけれど、いつまでも見つめていたいけれど……。

「では、私はお邪魔になるといけませんから」

 振り切るように立ち上がりました。
 紫紺に背を向けて部屋を出ようとした時。

「ははうえ!」

 呼び止められて、ゆっくりと振り返ります。
 紫紺は私をじっと見つめていました。その眼差しに胸が締めつけられる。でも平静を(よそお)って笑いかけます。

「なんですか?」
「……ううん、なんでもない」
「そうですか。頑張ってくださいね」

 私はそう言うと部屋から出ていきました。
 こうして普段通りの日常を装って、何事もないかのように振る舞い、淡々(たんたん)支度(したく)をします。
 そう、黒緋と萌黄が帰ってくる前に(みやこ)を出る支度(したく)を。
 逃げるような真似をして黒緋と萌黄には申し訳なく思います。紫紺と青藍には(つぐな)いきれない罪悪感を覚えます。
 でもこれ以上ここにいられませんでした。
 私の存在はいずれ天妃である萌黄を傷つけるでしょう。
 そして今も黒緋を苦しめている。黒緋はいつか私と出会わなければよかったと思う日がくるでしょう。それだけは嫌でした。
 私は最低限の身支度を整えて、(ふところ)には翡翠(ひすい)(くし)をひそめました。黒緋からいただいた大切な贈り物。これは情けない未練かもしれないけれど、それでも持っていくことを許してほしい。
 私は市女笠(いちめがさ)を被り、誰にも気づかれないように草履(ぞうり)()いて寝殿(しんでん)を出ました。
 でも最後に正門を出て黒緋の寝殿(しんでん)を振り返ります。
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