一夜限りだったはずの相手から、甘美な溺愛が止まらない。

*****


 「だからさぁ、本当に君は気が利かないよねぇ」

 「……申し訳、ございません」

 「今夜は接待だってあらかじめ知ってるよねぇ?なんで手土産の一つも用意してないわけ?」


 接待相手が大物だから自分で選びに行くって言ってたじゃない、とは口に出さなかった。

 今日も変わらず、佐伯部長の嫌みや小言、不躾な言動は朝から止まることを知らない。ただいつも通りに頭を下げ続けて、とにかく部長とのやり取りが一秒でも早く終わりますようにと祈るばかり。

 私が勤めている『ミツムラ食品株式会社』は、日本でも有名な食品会社で、あらゆる調味料や冷凍食品、そのほか飲料水やサプリメントまで手掛ける大手企業として位置づけられている。


 大学を卒業して、新卒で入社を決めてから早五年。

 秘書課に配属されて、今の営業部長専属の秘書として毎日お仕えするようになって三年が来ようとしている。


 本当は今すぐにだってここから立ち去ってしまいたいけれど、お給料や大手ならではの福利厚生、それから部長を除いた他の先輩や上司達はすごく気の合う人ばかりだから、これらを天秤にかけたとき、なかなか『退職』の切り札を使うことができないでいる。

 なにより会社を辞めて、また一から面接を受けて、仕事を覚えて、新しく人間関係を築いていかなければならないという苦難が待ち受けていることを想像すると、唯一の厄介者である部長に頭を下げたほうが楽だと考えてしまう。


 「もういいから、今すぐ買いに行ってよ。今日の接待で何か粗相したら、君、確実にクビだからね!クービ!」

 「……すぐに手配して参ります」

 大丈夫、スルーすればいい。

 聞き流せばなんてことはない。いつものことだもの、無視が一番よ、無視無視。

 心の中で何度もそう言い聞かせながら、逃げるようにそそくさと部長室をあとにする。

 行き場のない鬱憤は毎日心の中に爆発寸前まで詰め込んで、そして常に捌け口を求めている。

 いつもは仕事が終わると彼に電話を繋いでもらうこともあって、そこですべて吐き出していた。言葉数は少なくても、『うんうん』『で?』と聞いてくれるだけで気持ちが軽くなっていた。

 「……っ」

 けれど、それは一週間前までの話。

 現在、彼……修一くんとは、もうすべての連絡を絶っている。

 二週間の国内出張だと嘘を吐いて、その間彼は平気で自宅のベッドで私以外の女性を抱いていた。

 休日を使って部屋の掃除でもしておいてあげようと善意で入った彼の家には、私達を出会わせてくれた友人……萌香がいた。

 我が物顔で修一くんの家に転がり込み、そして彼女は私が常備していたパジャマやスキンケアを勝手に使い込んでいた。


 考えただけで頭が痛くなる。

 思い出すのはやめよう。だってもう決めたじゃない。

 人生で初めてのワンナイトを過ごしたあの日から、もう一週間が経っている。

最初で最後のあの経験から、もう二度と恋なんてしないと私は決めた。一生独りで生きていくんだって、そう誓ったばかりなのだから。


 運よく誰も乗っていないエレベーターに乗って、一階のフロントまで降りて『谷澤 加奈』と書かれた社員証を翳して外に出る。

 会社のビルを出ると、外は綺麗な秋空が広がっていた。小さく深呼吸をして、無理やり余念を断ち切りながら大きな商業施設へ向かっていく。



 「今日の接待相手って、あの鳳間ホールディングス……よね?」

 何ヶ月も前から部長が会社全体を挙げて注力してきた企画の一つで、やっとその主要人物に会えるのだと、今日の接待を心待ちにしていたはず。

 誰もが知る、世界的にも有名な“あの”鳳間一族。

 世界各国の有名リゾート開発に携わり、日本では不動産やホテル、旅館などの設立を数多く担い、彼らの持つ資産額は常に長者番付の上位に君臨できるほどの額なのだとか。

 今回、彼らが日本に唯一無二の高級旅館を建設するにあたって、部長はその旅館の食事処の一切を弊社で担おうと、これまで努力に努力を重ねてきていた。

 その企画の命運を握る相手というのが――……。

 「鳳間 瑛人、さん……」

 一週間前にニューヨーク支社から帰国してきたばかりの秀才で、将来は会社の跡取りとなる鳳間家の中枢人物なのだと部長が言っていた。

 事前に渡されていた彼の経歴を見ただけで、只者じゃないことだけは分かっていた。

 世界中に海外支社を立ち上げ、その都度大きなプロジェクトをいくつも成功させては莫大な利益を生み続けている。

 そしてこの度、日本に帰国して彼の最後の役割といえる旅館の建設が行われるのだという。


 「(これは絶対に失敗できない……っ)」

 これまで佐伯部長の秘書として、いくつもの接待や会合に参加してきたけれど、正直ここまで緊張するのは初めてだ。

 小さく息をついて、気合いを入れ直しながら老舗の和菓子屋へと足を運んだ。


< 5 / 18 >

この作品をシェア

pagetop