一夜限りだったはずの相手から、甘美な溺愛が止まらない。
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 見るからに高級感が漂う料亭の中でも、一番グレードのいいお座敷の部屋に通されて、私を含め、部長やこの度の企画の主要メンバー達は全員、言葉を交わすことなくただ緊張という文字を浮かび上がらせている。

 それも仕方ないことだと思う。

 鳳間家の人々は、普段から滅多に表舞台には出てこない。何かあるときはいつも専属の代理人を立てて、同時にいくつもの重大な決定を下すことによって効率的に動いているのだという。

 そんな彼らの一人が、今日この場へ直接出向いてくるというのだ。

 それがどれだけ貴重なことで、そして今回の高級旅館建設の重大さが嫌でも伺えてしまう。


 「君、準備は抜かりなくできているんだろうね?」

 「は、はい。不備はないかと思います」

 「思います、じゃあダメなんだよねぇ?分かってる?今日がどれだけ大切な日なのか」

 「……今一度、肝に銘じておきます」


 部長は明らかに強張った表情を浮かべながら、無理にこちらへ話を振って平常心を保とうとしているのが見て取れる。

 けれどいつもは横柄な態度が目立つ部長も、さすがに今回ばかりは正座で鳳間瑛人を今か今かと待ち構えているところを見ると、これまでのような怒りは浮かび上がってこなかった。


 「(いや、私も緊張してそれどころじゃないんだ)」

 今日の接待を無事に乗り越えたら、有給休暇を取得して一人旅に行くと決めている。修一くんのことも、萌香のことも、部長のことも、何も考えないでいられる一人の時間が欲しかった。


 彼と別れたことは、仲のいい友人や両親にもまだ告げていない。

 それはきっと、私の中で気持ちの整理ができていないからだと思う。それに、『共通の友人に浮気されたので別れました』などと自らの口で言うにはあまりに惨めで、悔しくてたまらない。


 浮気現場を目撃してから今日まで、二人からの謝罪は一切なかった。

 絶対に許すつもりはないけれど、なにか一言くらいあるものだとばかり思っていた。

 萌香に至っては高校時代からの友人で、社会人になっても毎日のように電話やメッセージでやり取りをしていたというのに、あの日以来なんの音沙汰もないまま。

 「……っ」

 思い出したくもないのに、あのときの光景が何度も蘇ってきてしまう。

 その度に胸が締め付けられるような痛みに耐えなくてはならない。


 二人はいつから関係を持っていたんだろう。修一くんはどんなつもりで彼女を抱いたの?

 萌香はなんの罪悪感もなく今まで平気な顔をして私と連絡を取り合っていたというの?

 今はこんなこと考えるときじゃない、もう忘れてしまおうと心の中で言い聞かせても、忘れることは愚か、ふとした瞬間に無意識にそんなことばかり考えては自己嫌悪に陥っていく。


 「(あぁ、もう、やめて──……っ)」

 ぎゅっと下くちびるを噛み締めて、脳裏にこびりついて離れない記憶を振り払おうとしたとき。



 「──お待たせしました」

 「……!?」

 ゆっくりと開く襖の音と一緒に聞こえた声。

 心地の良い低音が、私の心臓を激しく揺さぶった。

 彼が、来たんだ──。


 「おぉ、これはこれは!お待ちしておりました、鳳間さん!」

 部長や企画メンバー達が一斉に立ち上がるのを見てすぐ、私も同じように姿勢を揃えて頭を下げる。


 「この度はこのような席においでくださいまして、誠にありがとうございます」

 私も部長のあとに続いて、同じように挨拶をして頭を下げた。

 ……ダメだ、今は集中しないと。

 名刺の交換をし終えたら、企画書をお渡しして、食事の配膳をお願いしに行って、それから……。

 頭の中で自分がやるべきことをもう一度確認しながら、失礼にあたらないようそっと例の彼を見上げた、そのとき──。


 「……ひっ!?」

 頭の中が、真っ白になった。

 突拍子もなく飛び出した変な声を慌てて隠すように、グッと口元を押さえる。彼の姿を目にした途端、それまでウダウダと悩んでいた修一くんのことも、萌香のことも、すべてがどこかへ飛んでいってしまった。


 「(待って?嘘……でしょう?)」

 鳳間さんを見上げていた視線を思いきり下へ向けて、限界まで顔を背ける。

 彼のキリッとした顔立ちに、長いまつ毛、キメの細かい色素の薄い肌に、艶のある黒い髪。

 これほどまでに綺麗な顔立ちの男性を、そうそう忘れるわけもない。


 けれど、私のすべてがそれを拒否している。

 今、私の目の前にいる彼、鳳間瑛人さんが……ちょうど一週間前のあの日、私がバーで自ら声をかけ、一夜を共にした相手だということを。

 私のはじめての、ワンナイトの相手だということを。



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