好きになってはいけない
 思わず飛び退き、辺りを見回す。他に人はいない。

 でも、今の顔は、絶対に私じゃなかった。

 恐る恐る近づき、もう一度水に顔を映す。

 その顔は、まだそこにあった。

 先程のように髪に触れてみるが、水面の彼は動かない。

 どこか苦しそうな瞳で、助けを求めるように、こっちを見つめている。

 よくよく見ると、端正な顔立ちをした男だった。

 私と同い年くらいだうか、通った鼻筋と、柔らかそうな黒い髪、そして夜の闇を詰め込んだような瞳。

 暫く彼の顔を観察する。

 この国の顔じゃない。

 滑らかな薄橙の肌。

 今にも、何か語りかけてきそうな瞳で、こっちを見ている。

 話しかけてみようか、と迷ったが、やめておくことにした。

 声を出さないほうがいい。

 なぜか、そう感じたからだ。
 彼の瞳を、吸い寄せられるように見つめる。

 黒い瞳には果てがなくて、いつまでも見ていられそうだった。

 時が止まったかのように、彼の瞳に、何かを探す。

 先程、初めて見た男かのように説明したが、私は随分前から彼を知っていた。

 夢の中で、幾度も、幾度も、彼に会っていた。

 まるで毎夜、逢瀬するように。言葉を交わしたことはなかったし、こんな風に現実の中で、目が覚めている時間に会うことはない。

 彼はいつも何も言わずに、距離を置いて私を見つめているだけだった。

 幾度か、何か言おうと口を開きかけたこともあったが、その度に何を思ってか、口を閉ざす。

 暗闇の中で、私と彼だけが、浮かぶようにその空間の中にいた。

 私も彼も、それ以上近寄ろうとはしない。

 だから、今までは顔を近くで見る機会もなかった、こんな風には。

 彼はやっぱり、何も言わない。

 ただ、じっと私を見つめるだけだ。

 そして私も、彼を見つめるだけ。

「キイィィィィィ!!」

 突然、鳥の声が静寂を打ち破り、私の頬を掠めるようにして横切った。

思わず目を瞑り、手で顔を覆う。
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