政略結婚は純愛のように番外編〜やきもちの代償〜
静かな夜。
加賀家のキッチンで、由梨は食器を洗っている。
隆之が愛用している茶碗、由梨のお気に入りのグラス。
離乳食をはじめたばかりの沙羅の食器は特に念入りに。
最後に消毒まで済ませた時、寝室から隆之が出てきた。
今日は彼も休みで、夕食後、沙羅と風呂に入り、そのまま彼女を寝かしつけていたのだ。
キッチンまでやってきて、由梨に声をかける。
「沙羅は寝たよ。由梨も風呂に入っておいで。後は俺がやっておくから」
その言葉をありがたいと思いつつ、由梨は素直に頷くことができなかった。
「ありがとうございます。でも大丈夫です。後少しですから。隆之さんはもうゆっくりしてください」
彼の顔を見ないようにしながらそう言って、由梨は食器を洗い続けた。
普段、少し疎かになっている鍋やフライパンの底まで磨いていく。
胸にある、もやもやした感情を消し去りたくて力を込めた。
とはいえ、なぜ自分がこんな気持ちになっているのかということは、いまひとつわかっていない。
もちろん、まったく心あたりがないわけではない。
頭に浮かぶのは、今日の昼間の出来事だった。
今日の昼間、由梨と隆之、沙羅の三人は加賀家の親戚との会食に出席した。
会食と言っても、少人数で地元の料亭で昼食を囲むという気楽なものだった。
仕事の関係でアメリカ西海岸に住んでいる加賀一香(いちか)という隆之の又従姉妹が帰国したからだ。
彼女が帰国するのは、隆之と由梨が結婚してからははじめて。せっかくだから会おうという話になったのだ。
アメリカで日本の伝統文化を紹介する会社を経営しているという彼女は、快活な気持ちのいい女性だった。
会食は和やかに終わった。
——それなのに、どうしてこんなにも気持ちが晴れないのだろう?
鍋の底を磨きながら、由梨は思いを巡らせる。
会食で、隆之の叔父のひとりが一香にかけていた、ある言葉が頭に浮かんだ。
『ようやくお前もお役ごめんだな、一香。隆之が誰とも結婚しなかったら、お前と一緒にしようかと皆言っていたんだが』
どうやらこのやり取りは、彼女にとっては、いつものことのようだった。
特に驚くわけでもなく、うんざりして口を開いた。
『嫌だ、おじさん。やめてっていつも言ってるじゃない、隆之と私なんか絶対に無理、相性最悪なんだから。絶対に嫌よ』
隆之も同じ調子で答えていた。
『それはこっちのセリフだな』
『三日で離婚だわ』
『同感だ』
親戚の中だけで交わさせる、たわいもない冗談だ。
言っている叔父本人だって、少しも本気ではない。
……そんなことわかっている。
それなのに、どうしてか心に引っかかって、気分が晴れなかった。
原因となる出来事はわかっても、肝心の自分の気持ちがわからなくて、由梨は鍋の磨き続ける。
ピカピカになっても、さっぱりわからなかった。
自分の心を探るのは諦めて、由梨は鍋を広げた布巾の上に置く。
手を洗いタオルで拭いてから振り向いて……。
「きゃ!」
驚いて声をあげてしまう。
キッチンの入口に隆之がいたからだ。
腕を組んで壁にもたれかかり、由梨を見つめていた。
「た、隆之さん……! ずっとそこにいたんですか?」
彼はそれには答えずに、咎めるような視線を由梨に送る。
身体を起こし、ゆっくりとこちらへやってきた。
流しに両手をつき、腕の中に由梨を閉じ込めた。
「リビングでゆっくりしててくださいって言ったのに……」
「ああ、聞いたよ。だけど、明らかに様子がおかしい妻を放っておけるほど、俺はものわかりのいい夫じゃない」
そう言って彼は由梨をジッと見る。
なにがあったんだとその目が由梨に問いかける。
でも由梨は答えられなかった。
なにしろ自分でも、なぜこんなにもやもやしているのか、わからないのだから。
「べつに……私はなにも……隆之さんの気のせいです」
目を伏せてそう言うと、突然抱き上げられた。
「きゃ!」
驚いて、彼の首にしがみつく。
彼はそのままリビングへ行き、優しく由梨をソファへ下す。
隣に自分も腰を下ろした。
背もたれに腕を置いて由梨を見た。
「昼間のことを気にしてるのか?」
鋭い彼は、由梨が引っかかっているらことの原因を一発で言いあてる。
由梨が答えられないでいるうちに、また口を開いた。
「一香との話だろ? あれは叔父の冗談だよ。小さい頃からいつも言ってる。誰も本気にしてないよ。だけど、由梨が不快ならもう二度と言わないように……」
「だ、大丈夫です。それは私もわかっていますから」
由梨は慌てて彼を止めた。
由梨のもやもやは、叔父の件がきっかけだが、引っかかっているのが話の内容でないことは確かだった。
隆之の過去に今更嫉妬などしない。
彼に愛されているのは自分なのだいう自信が由梨の気持ちを強くしている。
しかも今日の話は、過去とも言えないようなものだ。
「叔父さまの話に、引っかかっているわけではないんです。本当です……!」
自分を見つめる彼に、由梨は説明する。
「あの時以来、なんだかもやもやするのはその通りなんですが、なにに引っかかっているのか、自分でもわからなくて……」
意地を張らずに答える由梨に、隆之が目元を緩めた。
「もやもやするけど、原因がわからない……か。ちょっとにぶい由梨らしいな」
そう言って頭をなでる。
「だけど俺に対してもやもやするなら、原因を見つけてくれるとありがたい。俺は由梨に少しもつらい思いをしてほしくないんだ」
優しい言葉と愛おしげに自分を見つめる眼差しに、由梨の胸はキュンと跳ねる。
でもそこに混じる、ほんの少しの不満。
そこで、由梨はハッとする。
ようやく自分のもやもやの原因に思いあたった。
「あ、わかった……」
呟くと、隆之が続きを促すように首を傾げた。
……でもすぐに言うことはできなかった。
あまりにも子どもじみた、馬鹿げた気持ちだったから。
「えーっと……。た、たいしたことではありませんでした……。もちろん隆之さんは悪くないです。私が、くだらないことにこだわっていただけで……」
そう言ってごまかそうとするけれど当然それで隆之が納得するはずがない。
由梨をジッと見つめている。
言うまで許してもらえないことは確かだった。
「……笑わないですか?」
隆之が頷いた。
「笑わないよ」
あきらめて由梨はため息をついた。
「私、きっとうらやましかったんです。隆之さんが、一香さんに……その……」
頬を染めて言い淀む。
隆之が首を傾げた。
「うらやましい? ……一香がか?」
「はい。隆之さん、一香さんに気楽に口を聞いていたでしょう? こう……友だちみたいにポンポンとやり取りして……」
「ポンポンと……?」
隆之が瞬きをして繰り返した。
そう、由梨はうらやましかったのだ。
隆之はいつも由梨に優しくて、決して由梨をぞんざいに扱ったりはしない。
それはとても嬉しくて幸せなことではあるけれど、一香のように気楽に言いたいことをそのまま口にする間がらでないのは確かだ。
今日、目の前で繰り広げられた、友人のような気楽なやり取りを由梨はうらやましいと思ったのだ。
「隆之さんと一香さんは小さな頃から一緒にいるから、言いたいことをそのまま言い合っているでしょう? そんな関係がなんだかうらやましいなって……。長坂先輩と話している時もそうだけど、ああいう時の隆之さん、肩の力が抜けてちょっと口が悪くなって……なんか、素敵で」
由梨の話は隆之にとって意外だったようだ。
瞬きをして驚いている。
次の瞬間噴き出した。
そのまま肩を揺らして笑う彼に、由梨は頬を膨らませた。
「もう、笑わないって言ったのに」
「ごめんごめん……! だけどあまりにもかわいいやきもちだったから……!」
「だから言いたくなかったのに」
由梨はしょんぼりと肩を落とした。
馬鹿馬鹿しい、子どもみたいな気持ちを隠しきれず大袈裟なことになってしまった。
もう子どもも産んで、母親になったのに、恥ずかしい。
「もやもやしたままよりいいじゃないか。話してくれて俺は嬉しいよ」
そう言って彼は由梨の髪を優しくなでた。
「一香や長坂に対しては、お互いに愛情がないからこそああいう態度になってしまう。向こうだってそうだろう。確かに言いたいことを言い合っているけど、だからと言って彼女たちとが由梨よりも大切というわけではない。由梨は俺にとってなにものにも代え難い存在だ。だからぞんざいには扱えないし、じゃけんにもできない」
その言葉が彼の本心だということはわかる。
それでもまだどこか納得できない自分自身が情けない。
もうこうなったら、全部言ってしまおう。
「それはわかっています。でも隆之さん、私、自分で思っているよりもすごく嫉妬深いのかもしれません。ちょっと口が悪くなる隆之さんも、素敵だなって思うんです。だから全部ひとりじめしたくなってしまうんです」
自分の気持ちを包み隠さず口にして、由梨はため息をついた。
本当に恥ずかしい。
けれど全てを言ったら、少し気が済んだような気がする。
「変なこと言ってごめんなさい。だけど聞いてもらってちょっとスッキリしました。ありがとうございました」
そう思ったのだけれど……。
「由梨」
名前を呼ばれて優しくあごを掴まれる。
上を向いた視線の先で、隆之が穏やかに微笑んでいた。
加賀家のキッチンで、由梨は食器を洗っている。
隆之が愛用している茶碗、由梨のお気に入りのグラス。
離乳食をはじめたばかりの沙羅の食器は特に念入りに。
最後に消毒まで済ませた時、寝室から隆之が出てきた。
今日は彼も休みで、夕食後、沙羅と風呂に入り、そのまま彼女を寝かしつけていたのだ。
キッチンまでやってきて、由梨に声をかける。
「沙羅は寝たよ。由梨も風呂に入っておいで。後は俺がやっておくから」
その言葉をありがたいと思いつつ、由梨は素直に頷くことができなかった。
「ありがとうございます。でも大丈夫です。後少しですから。隆之さんはもうゆっくりしてください」
彼の顔を見ないようにしながらそう言って、由梨は食器を洗い続けた。
普段、少し疎かになっている鍋やフライパンの底まで磨いていく。
胸にある、もやもやした感情を消し去りたくて力を込めた。
とはいえ、なぜ自分がこんな気持ちになっているのかということは、いまひとつわかっていない。
もちろん、まったく心あたりがないわけではない。
頭に浮かぶのは、今日の昼間の出来事だった。
今日の昼間、由梨と隆之、沙羅の三人は加賀家の親戚との会食に出席した。
会食と言っても、少人数で地元の料亭で昼食を囲むという気楽なものだった。
仕事の関係でアメリカ西海岸に住んでいる加賀一香(いちか)という隆之の又従姉妹が帰国したからだ。
彼女が帰国するのは、隆之と由梨が結婚してからははじめて。せっかくだから会おうという話になったのだ。
アメリカで日本の伝統文化を紹介する会社を経営しているという彼女は、快活な気持ちのいい女性だった。
会食は和やかに終わった。
——それなのに、どうしてこんなにも気持ちが晴れないのだろう?
鍋の底を磨きながら、由梨は思いを巡らせる。
会食で、隆之の叔父のひとりが一香にかけていた、ある言葉が頭に浮かんだ。
『ようやくお前もお役ごめんだな、一香。隆之が誰とも結婚しなかったら、お前と一緒にしようかと皆言っていたんだが』
どうやらこのやり取りは、彼女にとっては、いつものことのようだった。
特に驚くわけでもなく、うんざりして口を開いた。
『嫌だ、おじさん。やめてっていつも言ってるじゃない、隆之と私なんか絶対に無理、相性最悪なんだから。絶対に嫌よ』
隆之も同じ調子で答えていた。
『それはこっちのセリフだな』
『三日で離婚だわ』
『同感だ』
親戚の中だけで交わさせる、たわいもない冗談だ。
言っている叔父本人だって、少しも本気ではない。
……そんなことわかっている。
それなのに、どうしてか心に引っかかって、気分が晴れなかった。
原因となる出来事はわかっても、肝心の自分の気持ちがわからなくて、由梨は鍋の磨き続ける。
ピカピカになっても、さっぱりわからなかった。
自分の心を探るのは諦めて、由梨は鍋を広げた布巾の上に置く。
手を洗いタオルで拭いてから振り向いて……。
「きゃ!」
驚いて声をあげてしまう。
キッチンの入口に隆之がいたからだ。
腕を組んで壁にもたれかかり、由梨を見つめていた。
「た、隆之さん……! ずっとそこにいたんですか?」
彼はそれには答えずに、咎めるような視線を由梨に送る。
身体を起こし、ゆっくりとこちらへやってきた。
流しに両手をつき、腕の中に由梨を閉じ込めた。
「リビングでゆっくりしててくださいって言ったのに……」
「ああ、聞いたよ。だけど、明らかに様子がおかしい妻を放っておけるほど、俺はものわかりのいい夫じゃない」
そう言って彼は由梨をジッと見る。
なにがあったんだとその目が由梨に問いかける。
でも由梨は答えられなかった。
なにしろ自分でも、なぜこんなにもやもやしているのか、わからないのだから。
「べつに……私はなにも……隆之さんの気のせいです」
目を伏せてそう言うと、突然抱き上げられた。
「きゃ!」
驚いて、彼の首にしがみつく。
彼はそのままリビングへ行き、優しく由梨をソファへ下す。
隣に自分も腰を下ろした。
背もたれに腕を置いて由梨を見た。
「昼間のことを気にしてるのか?」
鋭い彼は、由梨が引っかかっているらことの原因を一発で言いあてる。
由梨が答えられないでいるうちに、また口を開いた。
「一香との話だろ? あれは叔父の冗談だよ。小さい頃からいつも言ってる。誰も本気にしてないよ。だけど、由梨が不快ならもう二度と言わないように……」
「だ、大丈夫です。それは私もわかっていますから」
由梨は慌てて彼を止めた。
由梨のもやもやは、叔父の件がきっかけだが、引っかかっているのが話の内容でないことは確かだった。
隆之の過去に今更嫉妬などしない。
彼に愛されているのは自分なのだいう自信が由梨の気持ちを強くしている。
しかも今日の話は、過去とも言えないようなものだ。
「叔父さまの話に、引っかかっているわけではないんです。本当です……!」
自分を見つめる彼に、由梨は説明する。
「あの時以来、なんだかもやもやするのはその通りなんですが、なにに引っかかっているのか、自分でもわからなくて……」
意地を張らずに答える由梨に、隆之が目元を緩めた。
「もやもやするけど、原因がわからない……か。ちょっとにぶい由梨らしいな」
そう言って頭をなでる。
「だけど俺に対してもやもやするなら、原因を見つけてくれるとありがたい。俺は由梨に少しもつらい思いをしてほしくないんだ」
優しい言葉と愛おしげに自分を見つめる眼差しに、由梨の胸はキュンと跳ねる。
でもそこに混じる、ほんの少しの不満。
そこで、由梨はハッとする。
ようやく自分のもやもやの原因に思いあたった。
「あ、わかった……」
呟くと、隆之が続きを促すように首を傾げた。
……でもすぐに言うことはできなかった。
あまりにも子どもじみた、馬鹿げた気持ちだったから。
「えーっと……。た、たいしたことではありませんでした……。もちろん隆之さんは悪くないです。私が、くだらないことにこだわっていただけで……」
そう言ってごまかそうとするけれど当然それで隆之が納得するはずがない。
由梨をジッと見つめている。
言うまで許してもらえないことは確かだった。
「……笑わないですか?」
隆之が頷いた。
「笑わないよ」
あきらめて由梨はため息をついた。
「私、きっとうらやましかったんです。隆之さんが、一香さんに……その……」
頬を染めて言い淀む。
隆之が首を傾げた。
「うらやましい? ……一香がか?」
「はい。隆之さん、一香さんに気楽に口を聞いていたでしょう? こう……友だちみたいにポンポンとやり取りして……」
「ポンポンと……?」
隆之が瞬きをして繰り返した。
そう、由梨はうらやましかったのだ。
隆之はいつも由梨に優しくて、決して由梨をぞんざいに扱ったりはしない。
それはとても嬉しくて幸せなことではあるけれど、一香のように気楽に言いたいことをそのまま口にする間がらでないのは確かだ。
今日、目の前で繰り広げられた、友人のような気楽なやり取りを由梨はうらやましいと思ったのだ。
「隆之さんと一香さんは小さな頃から一緒にいるから、言いたいことをそのまま言い合っているでしょう? そんな関係がなんだかうらやましいなって……。長坂先輩と話している時もそうだけど、ああいう時の隆之さん、肩の力が抜けてちょっと口が悪くなって……なんか、素敵で」
由梨の話は隆之にとって意外だったようだ。
瞬きをして驚いている。
次の瞬間噴き出した。
そのまま肩を揺らして笑う彼に、由梨は頬を膨らませた。
「もう、笑わないって言ったのに」
「ごめんごめん……! だけどあまりにもかわいいやきもちだったから……!」
「だから言いたくなかったのに」
由梨はしょんぼりと肩を落とした。
馬鹿馬鹿しい、子どもみたいな気持ちを隠しきれず大袈裟なことになってしまった。
もう子どもも産んで、母親になったのに、恥ずかしい。
「もやもやしたままよりいいじゃないか。話してくれて俺は嬉しいよ」
そう言って彼は由梨の髪を優しくなでた。
「一香や長坂に対しては、お互いに愛情がないからこそああいう態度になってしまう。向こうだってそうだろう。確かに言いたいことを言い合っているけど、だからと言って彼女たちとが由梨よりも大切というわけではない。由梨は俺にとってなにものにも代え難い存在だ。だからぞんざいには扱えないし、じゃけんにもできない」
その言葉が彼の本心だということはわかる。
それでもまだどこか納得できない自分自身が情けない。
もうこうなったら、全部言ってしまおう。
「それはわかっています。でも隆之さん、私、自分で思っているよりもすごく嫉妬深いのかもしれません。ちょっと口が悪くなる隆之さんも、素敵だなって思うんです。だから全部ひとりじめしたくなってしまうんです」
自分の気持ちを包み隠さず口にして、由梨はため息をついた。
本当に恥ずかしい。
けれど全てを言ったら、少し気が済んだような気がする。
「変なこと言ってごめんなさい。だけど聞いてもらってちょっとスッキリしました。ありがとうございました」
そう思ったのだけれど……。
「由梨」
名前を呼ばれて優しくあごを掴まれる。
上を向いた視線の先で、隆之が穏やかに微笑んでいた。
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