甘美な果実
 瞬に殺されるところだったんだぞ。瞬が人殺しになるところだったんだぞ。篠塚に対しても悲痛な叫びを上げるように激怒する紘の声は、彼の耳には届いていないようで。篠塚は紘を一切見ることなく、紘に支えられながら手を伸ばす俺に応えようとするかのように、自身の手をゆるゆると差し出してきた。が、指先が触れ合う直前で、篠塚が力尽きてしまう。

 重力に従って力なく床に倒れ込む篠塚を見て、しのづか、と掠れた声を落とすと、それが引き金となったかのように、見えない何かが音を立てて決壊し、俺は紘の前で醜く嘔吐してしまった。

 シーツの上で広がる吐瀉物の中には、消化途中のような篠塚の血肉が混ざっている。吐いてしまった。せっかく喰ったものを。篠塚から貰ったものを。篠塚。篠塚。

 吐瀉物の中に手を突っ込むようにして、篠塚の欠片を拾おうとしたが、その手を紘に掴まれた。やめろ、と俺の先の行動を察したように止められる。やめろ。やめろ。分かっている。俺はそこまで堕ちたくない。堕ちたくないのに、自分が戻したものの中にあるケーキの血肉すら喰いたくて、喰いたくて、呼吸が乱れた。また、嘔吐いた。また、篠塚を戻した。また、戻した篠塚を喰いたくなった。やめろ。やめろ。

 目の前で吐かれても俺から距離を置こうとはしない紘は、瞬、ちょっとスマホ貸せ、と枕元に置いたままのカバンを弄り、外ポケットにしまってあった俺のスマホを取り出した。操作をし、すぐにスマホを耳に当てる。どこかに電話をかけているようだった。

 その相手と繋がり、しっかりとした口調で喋り出す紘の言葉や会話の内容から、救急車を呼んでいる、と脳が理解すると、それほどまでに凄惨な現状なのだと他人事のように思った。

 突然、意識を失くし、倒れてしまった篠塚は無事だろうか。生きているだろうか。死んではいないだろうか。この際、俺のことなどどうでもいいから、篠塚だけでも。俺の、篠塚だけでも。篠塚。篠塚。癖になるほど、美味かったから、また、喰いたい。喰いたい。喰っていいのなら、喰いたい。篠塚。俺が全部、喰いたい。篠塚。篠塚。気が、遠くなった。
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