甘美な果実
「……渕野くん、水いる? 俺、注いで来るよ」

 紘から目を背け、ガトーショコラを見つめながら思考の沼に陥っていると、今度は対面にいる篠塚に声をかけられた。顔を上げ、篠塚と目を合わせ、彼の台詞に釣られるように視線を移動させる。グラスの水。その中身は随分と少なくなっていた。それほど飲んだつもりはなかったが、どうやら思っていた以上に喉の渇きを感じていたようだった。

 気を遣ってくれる篠塚に、大丈夫、ありがとう、と淡々と返した俺は、気を取り直すように背筋を伸ばしてフォークを取った。篠塚の前では普通に美味しく食べられるふりをする。そうだ。今考えるべきなのは、篠塚にどのようにして自分の秘密を明かすのか、ということであって、あの不気味な黒い男のことではない。あれは後回しでいい。後で紘に聞けばいい。現時点での優先順位は篠塚だ。

 いただきます。ガトーショコラにフォークの先端を突き刺した。切り取り、不自然にならないように食べた。身が詰まっているような、ずっしりとした感触はあったが、やはり味はしなかった。何の味付けも施されていないような、虚無を食べているみたいだ。美味しくないと言える味すら感じられない。

 一口食べて、何とか飲み込んで、そこで手が止まる。見た目だけのガトーショコラは、俺が食べた部分が欠けただけで、まだ残っている。美味しかったはずなのに。何も感じない。食が進まない。食べる気力が湧かない。

 考えた。皿の上に載せられたガトーショコラが、篠塚の身体の一部だったらいいのに。良い匂いを常に漂わせている篠塚の血肉は、一体どのような味がするのだろう。想像した。

 篠塚だと思いながら、徐にガトーショコラを突いた。篠塚だと思いながら、徐にガトーショコラを掬った。篠塚だと思いながら、徐にガトーショコラを食べた。篠塚。篠塚。篠塚。虚無が増した。
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