甘美な果実
 篠塚の唇。篠塚のスプーン。篠塚の唾液。唾液。ケーキの唾液。ガトーショコラに僅かについた唾液。視線を篠塚からガトーショコラへ移動させながら、俺は唾を飲んで、飲んで、手を伸ばして、フォークで切って、刺すように掬って、自分の口へ引き寄せた。胸が高鳴っていた。期待と興奮に、熱っぽい息が漏れていた。篠塚の驚いたような顔も、零れ落ちるように吐かれた、渕野くん、という不安や疑問が含まれたような、語尾の上がった声も、見えているはずなのに見えなかった。聞こえているはずなのに聞こえなかった。理性がぐらぐらと不安定に揺れていた。

 掬ったそれを、食べた。瞬間、強烈な味が広がった。それは、他に類を見ないほどに甘くて、甘くて、ひたすらに、甘かった。癖になりそうなほどに、甘かった。安易に触れてはいけないものに、俺は触れてしまったのかもしれない。でも、もう遅かった。

 フォーク用の飴を噛み砕くことで誤魔化し続けていた飢餓感が露骨に顔を出し、食べ物に付着した唾液ではなく、本物を強く要求し始める。目の前に、本物がいる。本物の、ケーキが。少しの唾液のみならず、全部、喰える、ケーキが。いる。溢れ出す欲求を、抑えられない。抑えたいのに、抑えられない。

「ぜんぜん、たりない」

 理性と本能の狭間で揺れる意識が、舌の動きを甘くさせた。足りない。足りない。唾液では、足りない。もっと欲しい。もっと。喰いたい。喰いたい。篠塚を。ケーキを。喰いたい。喰いたい。貪りたい。骨の髄まで、貪りたい。ケーキ。篠塚。篠塚。その身体は、どれほどまでに、甘美なのか。喰って、喰って、確かめたい。篠塚。

 左手に持っていたフォークを落とし、俺は曖昧な意識のまま篠塚に向かってその手を伸ばした。自分を制御できない。今、この精神状態で篠塚に触れたら、残りの理性が、全て飛ぶ。これまで築き上げてきたものが、全て壊れる。失うものは大きいと分かっているのに、それを上回るほどの食欲が、俺に自分の唇を舐めさせた。ケーキの本能的な危機感か、篠塚の顔がじわじわ怯えに歪むのを薄らとした視界の中で目の当たりにしても、俺の意識は何も変わらなかった。何も。何も。
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