甘美な果実
 篠塚、喰いたい。喰いたい。喰わせろ。俺に、喰わせろ。喰わせろ。このままでは。壊れる。喰わせろ。壊れる。誰か、止めて。喰わせろ。

「おい、瞬、やめろ、落ち着け」

 落ち着けっての。強い口調で制止され、右肩を引かれたと思ったら、顔面を中心に液体状の冷たいものをぶっかけられた。喉が絞まるのを感じ、一瞬だけ息が止まった。

 突然の出来事とその冷たさに目が覚めるような思いがし、飛びかけていた意識が明瞭になっていく。空のグラスを持った紘が、俺の瞳に映っていた。彼は真剣な表情で俺の目を見つめた後、俺はそんなことをさせるつもりで煽ったわけじゃねぇよ、と今度は辛そうな、申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「あの、渕野くん……、海崎くん……」

 篠塚の声がした。その声は、怯えている。震えている。そうさせたのは俺だった。俺だったのに、自覚はあったのに、俺はまだ、食欲に侵されかけていた。紘に冷水を浴びせられ、びしょ濡れにさせられてまで止められたのに、止めてくれたのに、喰いたくて、喰いたくて、篠塚を見ようとする。それを紘が止めた。

「見るな。今日はもう帰れ。気をつけて、帰れ。篠塚のことは心配するな」

 瞬は自分のことだけ考えろ。有無を言わさず帰るよう促す紘に、半ば強制的に立たされながらも、俺は彼の意図を汲み取っていた。篠塚とは離れるべきだ。今のうちに、自分を制御できるうちに、これ以上状況を悪化させないように。最悪な展開になる前に、水をかけてまで止めてくれた紘の行動を無駄にしたくない。

 意識して俯いて、舌を噛んで、息を止めて、助けてくれた紘にも、怖がらせてしまった篠塚にも、感謝も謝罪も何も言えないまま、俺はケーキからも、芽生え始める自責の念からも逃げるようにして、その場を立ち去った。俺を呼ぶ篠塚の揺れた声には決して振り返らず、背中で全てを受け止めながら。
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