三日月だけが見ていたふたりの輝かしい生活
警鐘
体調はいいし、化粧のノリはいいし、利香は気持ちまで調子がよかった。

 武者は淡々と、時々意地悪な冗談を言い、そしていつも笑顔だった。

 利香の日常は非日常的だけど、今ではそれが普通で、他の暮らしなんて考えられなかった。

 形のあるものはいつか壊れるけれど、2人には友達とか恋人という形がない。

 だから壊れることなんてないと利香はたかを括っていた。


 バレンタインデーの当日、非常階段で大沢課長に出くわした。

 今年はチョコを渡していない。

 でもみんなで渡した義理チョコがある。

 べつにコソコソする必要もないのに、下を向いて小声で「おつかれさまです」と言ってすり抜けようとした。

 大沢課長の長所は部下を褒めるところ。

 そして思ったことをすぐに口に出すところ。

 そもそもそれが長所と言えるのか前から疑問だったけど、課長贔屓の女子社員は潔いとか言って褒め称えていた。

『潔い』と『勢い』を履き違えているのでは?と利香は思ったが、自分も大沢課長贔屓だったからそんなことは忘れていた。

「一ノ瀬」

 呼び止められた感が強くて、うまくすり抜けられなかったから利香は足を止めた。

「はい」

「何かあったか?」

 チョコがなかったからそう思うのか?

「いえ、特には」

「何か悩みがあるんならいつでも相談に乗るぞ」

 課長にチョコをあげなかったから何か悩みがあると思ったんだろうか。

 自信ありげに利香を見つめる課長は、武者と真逆の男なんだな、と思う。

 武者だって利香の心を読んで言葉を口にすることもある。

 今の課長と同じだ。

 でも、武者は読み間違えることがない。

 思い込みで物を言わない。

 いつも冷静沈着で、一方的ではない。

 チョコがないから何かあるなんて子どもみたいな発想は武者には無縁だ。

 なんでこんなに武者と比較するのか自分でもよくわからないけれど、今武者は1番近くにいる男だ。

 もし、誰かを好きになったら、知らず知らずのうちに武者と比べてしまうと思う。

 武者ならこう言う。

 武者なら笑う。

 武者なら・・。

「何もありませんよ」

 笑みを浮かべて階段を駆け降りる。

 売り場に出て、制服のポケットにある極上のハサミを確認する。

 大きな裁断用のテーブルの前に立つ。

 行列している布を抱えたお客様。

 花柄やペイズリー柄。

 色とりどりの布が、彼女たちの手によって形を変えられるのだ。

 何に変身させてもらえるのかワクワクしている布たちに利香は自分を重ねる。

「おまけにならないの?」

 1メートル測ったら残りはわずかに10センチ程度。

 それもきっと何かに変われるのだと思うと利香はハサミを構えた手を止めた。

 ハサミを入れず1メートル10センチの布を畳んで、メモ用紙に1メートル、780円と記入する。

 受け取った若い女性は嬉しそうに布を胸に抱く。

 変わっていく何かと、それを変える誰かを利香は笑顔を浮かべて見送った。


 
 


 

 
 
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