そしてリリアナは第三王子のお妃様になりました
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「初めてこんなに歩いたわ!」

 自らの背丈ほどある朝露に濡れた草花を掻き分け、リーナは約束通り森の奥の原っぱに辿り着いた。
 誰にも秘密でと告げられていたので、ここまでの道のりは一人きり。
 まだ幼いリーナにとって初めての探検だった。

 ささやかな達成感を噛みしめながら朝陽に染まる草地に足を踏み入れると、青く瑞々しい香りを乗せた風がリーナの褐色の髪をさらりと撫でる。
 風は草木も揺らし、遠くで鳥達が爽やかな旋律を鳴き交わした。
 森に迎え入れられたような気分になったリーナは、明け方の燃える空を見つめ、トクトクと静かに、それでいて力強く脈打つ胸の鼓動に耳を傾ける。

 もうすぐ9歳の誕生日を迎えるリーナは生まれてこの方、友人らしい友人にはまだ一度も出会ったことがなかった。
 その上、村には越して来たばかりで知り合いすらほとんどいない。

 両親はリーナにあまり関心がなかった。
 話しかけても何も答えてくれないし、抱きしめてもくれない。
 けれど、朝になって起きるといつもリーナの枕元にメッセージカードが置かれていた。
 両親の態度がどれだけ冷たくても、それを読めば、リーナは二人から愛されていることをひしひしと感じ喜びに満たされた。


『かわいいリーナへ
もうすぐ9さいのおたんじょうびね
ことしのプレゼントはなにがいいかしら
たのしみにしていてね
あなたをだれよりもあいしています

パパとママより』


 リーナは今朝もメッセージを読んだ後、まだ眠る両親に「パパ、ママ大好きよ」と声をかけ、頬にそっとキスをして家を出た。

「おはよう。リーナ」
 
 明るい声がして振り向くと、そこにはリーナよりも3つ年下の少年がいた。
 朝の光を紡いで編んだような蜂蜜色の短い髪に、大人びた曇りのない青の瞳。
 少女にも見紛うほど美しく整った顔立ちをした少年を前に、リーナは伏し目がちに挨拶を返した。

「……おはよう」
「どうかしたの?」
「な、何でもないわ」
「どこも痛い所はない? 大丈夫?」
「大丈夫。どこも痛くないわ」
「良かった。今日はここまで一人で来たの?」
「そうよ。だって約束したでしょう?」
「約束守ってくれたんだ。ありがとう」

 少年がこぼれるような笑みを浮かべると、リーナの頬は瞬く間に熱くなっていく。
 この感情を何と呼べばいいのか、リーナには分からなかった。
 何せ、リーナには友人がいない。
 他に比べる相手がいないので、友人とはこういうものなのだろう、と想像するしかなかった。

「じゃあ行こうか」

 リーナよりも頭一つ分、背の低い少年が手を差し出す。
 見た目は可愛らしいのに、まるでおとぎ話の王子様のようなその振る舞いにリーナの鼓動が小さく跳ね、慎重に自らの手を重ねた。
 手のひらから伝わる体温は柔らかく、温かい。
 この感情についてはよく分からないけれど、これだけははっきりと分かっていた。
 出会ったばかりのこの少年がとにかく大好きだということを。

 昨日、リーナはいつものように村の噴水広場にいた。
 同じ年頃の子達の輪に入りたくて思い切って話しかけてみたものの、皆お喋りに夢中でこちらには気が付かなかった。
 仕方なくリーナがその輪から離れようとしたところ、この少年と出会った。
 こんにちは、と初めての挨拶を交わして。
 リーナはその時、ずっと探していた友達がついに出来た喜びを小さな胸いっぱいに受け止めた。

「リーナは可愛いね」

 突然の少年の言葉に、はっと我に返る。
 隣で穏やかに微笑む少年を前に恥ずかしくなったリーナは、次々と足元を通り過ぎて行く露草を眺めた。

「ぼく、前からよく噴水広場でリーナを見かけていたんだよ」
「そうだったの? ごめんなさい。全然気が付かなかったわ」
「リーナはいつも広場の花を眺めたり、森から来る鳥やリスを可愛がっていたもんね。次に会う時も、そのままでいて欲しいな」

 会ったばかりなのに、少年はどうしてそんなことを言うのだろう。
 疑問に思いつつも、リーナはこくりと頷いた。



 
 どれだけ歩いただろうか。
 森のずっと奥深くまで入ると急に視界が開き、エメラルド色の大きな湖が姿を現した。
 湖面がキラキラと輝き、湖には美しい紫色の花がひと並びに浮かんでいる。
 それが曲がりくねりながら向こう岸まで続いているものだから、リーナにはとても神秘的に見えた。

「リーナ。昨日、噴水広場にいた子達のお話を覚えてる?」

 もちろん、と頷く。
 リーナはお話に夢中だった彼女達のことを思い出した。
 村の外れにある、深く静かな森。
 森の奥には美しい湖があり、そこへは決して近付いてはいけないこと。
 もしも近付いてしまったら、二度と戻って来れないこと。
 そこまで思い出して、はたと気が付いた。
 今、目の前に広がるのはその湖。
 リーナは、隣に立つ少年に視線を戻した。

「リーナ」

 柔らかな風になびいて、透き通った金色の髪が湖面に漂う輝きのように眩く揺らめいている。
 この少年は、初めて両親以外でリーナに話しかけてくれた人だ。

(でも、どうして一人でいるわたしに声をかけてくれたの?)

 突然心配になったリーナは、ふわりと裾の広がったワンピースを両手で強く握った。

「大丈夫。ぼくはただ、きみを案内したいだけなんだ」

 少年は穏やかに目を細めた。

「いい? きみはこの紫色の花を辿って湖を渡るんだ」
「嫌よ、帰れなくなるんでしょう?」
「そんなことないよ。今まで誰とも喋ったことがなかっただろう? でも湖を渡れば、その先でたくさんお友達ができるよ」
「それは嬉しいけど……早く帰らないとパパとママがきっと心配するわ」
「湖を渡っても、すぐに帰って来られるよ。リーナが楽しい思い出を作って家に帰ったら、パパもママもきっと喜ぶと思うな」

 もうずっと前から自分に向けられなくなった二人の笑顔を思い浮かべ、リーナは大きく頷いた。
 
「それはそうね。きっと喜ぶわ。じゃあ、行ってみようかしら。あなたはどうするの?」
「ぼくは……」

 少年は曖昧に笑った後、湖を見渡した。
 可愛らしい唇はきつく引き結ばれ、キュッと眉根を寄せている。

「ぼくも行こうかな」
「本当に? あなた、とっても寂しそうな顔をしてるわ」
「え?」

 リーナの言葉が意外だったのか、少年は目をパチパチと瞬かせた。
 すでに一人前の大人のような言動が目立つ少年が、リーナの前で見せたその表情は6歳の男の子そのものだった。

「何かしなくちゃいけないことがあるなら、それが終わるまでここで待っててあげるわ。わたしのことは気にしないで行って来てちょうだい」
「タイミングがあるんだ。きみは今じゃないといけない」
「そうなの? よく分からないけど、それならあなたは行かないほうがいいんじゃないかしら」

 きっとこのまま二人で一緒にいれば楽しいだろう。
 でもリーナには、少年が心から湖を渡りたいと望んでいるようには見えなくて気が進まなかった。
 少年は何か考えているのか、両手を腰に当てて深く俯いている。
 森に響く葉の擦れる音と鳥のさえずりを聞きながら、リーナはしばらくの間少年を黙って眺めた。

「そうだ……そうだね。きみの言う通りだ。ぼくにはまだやることが残ってる」
「それなら良かった。湖の向こうがどんなだったか、また教えてあげるわね」
「ありがとう。リーナはいい子だから、きっとたくさんお友達ができるだろうね」
「そうだと嬉しいわ。あなたにも紹介するわね」
「楽しみにしてるよ。さぁ、そろそろ時間だ」

 少年に言われるがまま、リーナは恐る恐る両足を大きな紫色の花に乗せた。
 花は一度揺れたものの、しっかりと湖に浮かんでリーナの身体を支えている。

「沈まないよ、大丈夫」
「不思議。よく知ってるのね。ここへはいつも来るの?」
「たまに。きみみたいな人を見つけたら一緒に来るよ」
「わたしみたいな……?」
「ううん、何でもない。リーナ、また絶対に会おうね」
「もちろん帰ってきたら会いに行くわ。お土産は何がいいかしら」
「お土産?」
「そうよ、あなたにお礼がしたいの」
「そんなの初めて言われたな……」

 少年は困ったように金色の前髪を掻き上げた。

「迷惑だった……?」
「違うんだ。ねえ、湖の向こうに飽きたらまたすぐに生まれておいでね。そしたらぼく、きみを見つけるから」
「変なこと言うのね。わたしはもうとっくの昔に生まれてここにいるわ」
「……そうだね」

 寂しそうに口角を下げる少年が心配になったリーナは、彼の前で目一杯微笑んで見せた。

「そんな顔しないで。すぐに戻って来るから」
「ほんと……?」

 より一層深く染まり始めていた少年の青い瞳に光が差し込み、活き活きと煌めいている。
 リーナは自らの胸を拳でどんと力強く叩いた。

「もちろんよ。わたし嘘はつかないわ」 
「分かったよ、リーナ。少しの間だけさよならだね」
「すぐに戻って来るんだから平気よ。また会いましょう。お土産も楽しみにしててね」
「待ってるよ。じゃあね、いってらっしゃい」
「ありがとう、いってきます!」





 リーナには友達がいなかった。
 外を自由に歩いたこともなかった。
 生まれてからずっとベッドに寝たきりだったから。
 そして8歳になったある日を境に、両親は抱きしめてくれなくなった。
 抱きしめてもらうことがとびきり大好きなリーナは、それがとても寂しかった。
 リーナはいつも独りぼっち。
 ようやく出会った友達への感情を恋だと知ることもなく、その友達の名前すら知らない。  
 でもリーナは幸せだった。
 純白の輝く空がどこまでも広がるこの世界で出会えた両親や、優しい友達のことが大好きだったから。


 雲の隙間から産声をあげたばかりの朝陽に包まれ、エメラルド色の湖を渡る。
 自らの小さな胸に手を当て、トクトクと静かに、それでいて力強く脈打つ心に、これこそが生まれてきた証なのだと、リーナは溢れる喜びをひしひしと感じていた。





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