ベッド―令和で恋する昭和女―
 2021年(令和3年)の6月のある日。
 彼はケーキ屋『リラの工房』の売り場に現れた。

 雨の降る午後2時過ぎ。
 私は一人でレジの後ろに立っていた。
 お客さんは一人もいない。

 暇だった私は雨音を聞きながらレジの後ろで箱折りという作業をしていた。
 正直やってもやらなくてもよい作業だ。

 他人様(ひとさま)がこの瞬間の私を見たならば、
(間抜けな顔をしたおばさん店員が何かやってるな)
 と思ったはずであろう。

 売り場に「チリン、チリン」という小気味よい鈴の音がした。
 お客さん専用のドアの上部に取り付けられた鈴が動いた音だ。
 もし『リラの工房』がコンビニだったら電子音を耳にすることができたはずだ。
 もっとも『リラの工房』のお客さん専用のドアは自動ドアですらないが。

 来客を告げる音を聞き、私は反射的に顔を上げた。
 精一杯の笑顔で挨拶をする。

「いらっしゃいませ」

 店に入って来たお客さんはレジの後ろに存在する私の姿を確認すると、何も言わずに少しだけ頭を下げた。
 お客さんは店内を物色し始めた。
 ショーケースに並ぶケーキやタルト、ゼリーの数々。常温保存の効く焼き菓子など。
 店頭にある全ての商品に目を通していた。

 お客さんは20分ほど店内を観察していた。
 お客さんが若い男性なのはその身なりからわかった。
 しかし、細かい年齢までは判別できなかった。

 当時、新型コロナウイルスが流行していた。
 街を行く人々は皆、マスクを付けていた。
 接客業に従事する人間がマスクを付けることはもちろん、お客さんとして訪れた人間もマスクを付けるのが当たり前であった。

 だからこの時、売り場に訪れたお客さんを大雑把に若い男性と一括りにしたが、白いマスクで鼻梁から下を覆っていたため細かい年齢までは推測することができなかった。

(初めての彼女にあげる誕生日プレゼントでも物色してるのかな?)

 箱折りをしながら、私はそんなふうに思った。

 お客さんが商品を選んでいる時、私はなるべく声をかけないように心がけている。
 声をかけるとお客さんに、「早く注文をしろ」と急かしているような気がするのだ。
 私は視界の中に青年の姿を入れつつ、箱折りの作業を淡々と続けていた。

 レジ前にお客さんである青年が来ると、私は箱折りの手を止めた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
 青年はおずおずと言う。
「パイシューはありませんか?」
「え?」
「こちらでパイシューを取り扱っていたと思うんですが」

 確かに、そのような商品をショーケースに並べていた時期があった。
 パイシューとは「パイ生地シュークリーム」の略語である。

 今でこそ『リラの工房』では古参の部類に入ってしまった私だが、『リラの工房』に入るまで飲食店で働いた経験がなかった。
 調理学校も行っていないし、調理師免許も衛生士の免許も持っていない。

 なので、そもそも洋菓子業界にパイシューなるものが存在し、一般に広く認知されているかどうかを知らなかった。
 少なくとも私の知る限り、『リラの工房』以外でパイシューなるものを販売しているのを見たことがなかった。
 それだけ私はスイーツに関して素人なのだ。

 『リラの工房』ではパイシューの生産、販売を2020年(令和2年)4月で打ち切っていた。
 販売打ち切りの理由を一従業員の私は知らない。
 売り場に立った時の肌体験としてだが、パイシュー自体の売れ行きは悪くなかった。

 私は目の前の青年に事実を率直に伝えることにした。
「すみません。パイシューは去年をもって販売を中止とさせていただいています」
「そうだったんですか」
 青年はとても残念そうな顔をした。が、すぐに明るい声を出した。
「クッキーシューはまだあるんですね?」
「はい。クッキーシューは提供させていただいています」

 クッキーシューとは「クッキー生地シュークリーム」という商品名の略語である。
 こちらも他店で販売しているかどうか不明だ。

 青年が弾む声を出した。
「では、クッキーシューを5つ下さい」
「お持ち帰りに何分ほどかかりますか?」
「ここで食べます」
「え?」
「クッキーシューを持ち帰りではなく、ここで5ついただきます」
「そ、そうですか」
「それからアメリカンを下さい」
「わかりました」
 私は冷静に返事をしたつもりだった。
 が、その声は震えていたであろう。

 目の前のお客さんは若い。しかも男性だ。
 これくらい食べて当たり前かもしれない。
 私だって十代の頃、お腹が空いた時には軽く食パンを一斤食べたものだ。

 私はレジで金額を請求した。
 青年はPay決済をした。
 レシートを青年に受け渡し、レジ横の小さな席に案内する。
「少々、お待ち下さい」

 私はコーヒーメーカーでアメリカンコーヒーを作りながら、ショーケースからクッキーシューを5個取り出した。
 ここで私は困った。
 普通のお客さんが店内で食べるケーキやタルト類、クッキーシューは1個と決まっている。
 なので、1枚の皿に1個の商品が載ることを想定された大きさなのだ。
 5個のクッキーシューは1枚の皿に収まらない。

 私は考え、1枚の皿に2個のクッキーシューを載せたものを2つと、通常通り1枚の皿に1個のクッキーシューが載せたものを用意した。
 計3枚の皿になる。

 1枚の皿に2個のクッキーシューを載せた皿から、クッキーシューがややはみ出していていた。

 アメリカンコーヒーが淹れ終わったので、まずはそれを青年に提供する。
 次に、強引にクッキーシューを載せた3枚の皿を青年の前に並べる。
 慣れない動作なので皿同士がぶつかり、カチャカチャと音を立てた。

 私は心配になった。

 割れないかな? 割れないよな。

 青年は私の不安を知ってか知らでか、目を輝かせてクッキーシューを見詰めた。
「いただきます」
 青年はクッキーシューを手づかみすると頬張った。
 皿には専用のフォークが置かれている。が、青年は使わなかった。

 青年はまるでりんごを齧るようにクッキーシューを口中に入れた。
 時折、アメリカンコーヒーを飲み、一心不乱にクッキーシューにかぶりつく。

 またしても私は不安になった。

 こんなに一度に糖分を摂取して大丈夫か?
 いくら若いとはいえ高血糖でぶっ倒れないか?

 青年は10分もしないうちに5個のクッキーシューを平らげた。
 青年はカップの底に残ったアメリカンコーヒーを啜ると手を合わせた。
「ごちそうさまでした」

 私はたまげた。
 若い男性とはいえ、やるな、と。

 青年はふいに立ち上がると、レジにいる私の元に足を進めた。

「大変失礼ですが、まだ募集はされているでしょうか?」
「はい?」
「これです」

 青年はジーパンの後ろのポケットから1枚の紙を取り出した。
 それは新聞の折り込み広告で打ち出された『リラの工房』のパートタイム募集のチラシであった。

 青年は先ほどよりも瞳をキラキラと輝かせながら言った。

「是非、こちらで働かせていただきたいと思っております」
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