白薔薇の棘が突き刺さる

01 淑女の資格

 楽団の奏でる音楽が華やかに流れる舞踏室で、母の上目遣いが向けられる。シュネージュはこれから始まる儀式(・・)を思ってうんざりした。
 舞踏室の中央では、妹のモニカが紳士に手を取られ、華やかに踊っている。瑞々しい肌は、蝋燭の灯りを照り返し、光を振り撒いていた。
 あどけなく初々しい社交界の華は、注目の的だった。

「モニカ嬢が、今年のデビュタントでは一番、美しいわね」
「ほんとうに。まるで蜜に群がる蟻のように殿方が群がっているもの」

 壁際に置かれた長椅子に座った年配の既婚女性たちから、感歎の声が漏れる。彼女たちは、毎年デビューする若者たちの評論をするのが好きなのだ。そして、数年前は、シュネージュが注目の的だった。

「そういえば、お姉さまがいらっしゃらなかった?」
「ええ、あの方は選り好みしすぎて、婚期を逃されたのよ。綺麗なレディだったのに、もったいない」
「妹も、同じ轍を踏まなければいいわね」
 
 女性たちの忍び笑いが聞こえた。
 ジュネージュは、選り好みなどしたことない。山のように現れた求婚者は、シュネージュが相手にしないと分かると潮が引くようにいなくなった。高慢な令嬢と噂され、縁談はいつしか来なくなった。

 無力感に苛まれ立ち尽くすシュネージュに、小柄な母が近づいてくる。モニカを引き立てるように着た灰緑色のスカートの裾をシュネージュは思わず握りしめた。

「おまえは、なぜ結婚してないの?」

 長身のシュネージュの瞳を覗き込むようにして、問いかける。その声には、不可解なものに対する批難が込められている。自分の娘が行き遅れだなんて、信じたくないのだ。

「お母様……わかってらっしゃるでしょ?」
「どうして? あなたは、教養もあって、容姿だって悪くないわ。縁談だって、たくさん舞い込んでたのに……そんな娘が……」

 シュネージュは溜め息をつきたくなった。
 何度そのやり取りを繰り返せばいいのだろう。母は記憶力が欠落しているのだろうか。

 シュネージュは、母親の腕をとり、舞踏室を抜け出した。ひんやりとした夜気に包まれた庭園で、人気のないことを確認して、ブランシュ家の秘密を耳元で囁いた。

「わたくしは、淑女の資格を失っております」

 誰にも聞こえないように、そっと小声で告げると、母は目を瞑って唸るように口を開いた。

「そうだったわね……」

 これで、いつもなら母の発作を抑える儀式が終了する。だが、今宵の母は違った。視線を彷徨わせて、抗うように言葉を探す。

「でも、方法がないわけじゃない。黙っていればバレないわ」

 母は顔を歪ませて微笑んだ。その醜悪な表情にシュネージュは震えが走った。
 舞踏室の中央で踊るモニカは本当に美しかった。彼女の艶姿は大勢の殿方を惹きつけていた。きっと輝かしい縁談が舞い込むだろう。その前に、行き遅れの姉をどうにか片付けたくなったのだ。

「血糊をね、仕込むそうよ。そうしたら……」

 頭に血が昇り、真っ白になる。
 娘というものは、母親に何を言われても傷つかないとでも思っているのだろうか。母本人は、娘のためを想って言っていると信じ込んでいるからタチが悪い。
 思わず手袋をした手を握りしめた。

「騙したくないんです。……相手を騙して、信頼を失って……その先に幸せな生活が待ってるとは思えない」
 
 シュネージュは、ゆっくりと頭を振った。
 ブランシュ家の娘が未婚のまま純潔を失ったなど、酷い醜聞だ。発覚したら社交界を追放され、弟妹の縁談にも障るだろう。
 現実を知った母は、一気に萎れたように押し黙った。

 従順で大人しいシュネージュは、母のお気に入りだった。自慢の娘だったシュネージュは、地に堕ちた。

「だから、大学など通わせなければ良かったわ。わたくしがあんなに反対したのに……」

 母は因果関係が分かってない。大学は悪くない。実家が破産寸前になったせいだ。
 発作が治まった母は、シュネージュのことなど忘れたように、舞踏室へ戻る。彼女に代わり、お気に入りになった妹の周囲に目を光らせるために。

 庭園に取り残されたシュネージュは、明るい舞踏室へ戻る気にならなかった。
 シュネージュは家族の汚点だ。きっと不慮の事故や病気でシュネージュが死んだら、母は悲しみながらも安堵するだろう。

 秋の薔薇はどこか物哀しい。闇夜に浮かび上がる白い薔薇に思わず手を伸ばした。

「いたっ……」

 指に棘が刺さり、赤い血の雫が現れた。
 手袋を脱ぎ指を口に入れると、鉄錆の味がした。

 適齢期を逃してしまった。いいや、そもそも資格がない。純潔を失っているのだから……。
 少女の頃から夢見てた幸せな結婚生活は、決してシュネージュの手に入らない。

 ふと顔を上げたシュネージュは、叫びそうになった。目の前に長身の男性が静かに立っていたのだ。
 体中の筋肉がこわばる。
 母との会話が聞こえていたかもしれない。そう思うと、足は地面に釘づけになった。息を殺し、彼の表情を伺おうとして、シュネージュは更に驚愕した。

 目の前の男性は、上等の夜会服を着こなし、片手を胸にあてて優雅にお辞儀した。
 
「久しぶりだね、シュネージュ」

 五年前、シュネージュは体を売った。
 一夜限りの娼婦。彼は、シュネージュを破格の値段で買った男だった。
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