白薔薇の棘が突き刺さる

03 破格の取引

 カーテンが閉じられた部屋は薄暗いが、相手の表情が見えるくらいには明るい。

 震える手で、ボウタイのリボンに手をかける。滑らかなシルクの白いリボンはサラリと解けた。
 その様子を咎めるように、レオナールの眉が垂れる。
 ブラウスを脱ぐと、首にぶら下げた小瓶が揺れた。

「それは?」
「……毒薬よ」
「毒? なぜ、そんなものを?」
「……護身用よ」

 純潔を守るように母が持たせた毒薬が、役目を果たすことはない。これから失ってしまうのだから。

「高貴なやつが考えることは分からん」

 ふんと鼻息をつき、レオナールは襟をゆるめながらも、シュネージュから視線を外さない。

 人が服を脱ぐ姿をまじまじと見ないで欲しい。紳士なら目を逸らすものだろう。もっとも、紳士ならあんな取引を求めたりはしないだろうが。

 腰のフォックを外すと、深緑のスカートが床にぱさりと落ちた。また、レオナールの眉が垂れた。
 なんなのだ、一体。
 自ら服を脱ぐような女は、興が醒めるとでも言いたげだ。でも、それでいいのだ。シュネージュは、さっさと始めて、さっさと終わらせるつもりだ。

 レオナールは、実家の困窮をシュネージュよりも良く知っていた。商家のネットワークで知りえたものだろう。羽振りがよくても、ツケで浪費して首が回らなくなる貴族は山のようにいる。

 もちかけられた取引は、彼と一夜を過ごすこと。そうすれば融資を約束するという。
 『馬鹿にしないで』『冗談じゃないわ』とシュネージュは拒絶した。だが、多額の援助と引き換えに、妹のモニカを公爵家の養女にする計画があることを告げられる。

「コイシュハイト公爵。どんな人物か知ってるかい?」

 知ってるも何も、コイシュハイト公爵はシュネージュが法律の勉強を志す発端になった人物である。
 穏やかで上品な紳士で、慈善活動に積極的だ。孤児院をつくり、貧しい少女のための職業訓練学校も創立し、その運営にも力を入れている。
 ブランシュ家とも懇意で、行き来が頻繁にあった。幼い頃、シュネージュは公爵にとても可愛がってもらっていた。彼は、シュネージュを膝の上に乗せ頬ずりをする。小さな手を握りしめ、波打つ栗色の髪を指で梳いた。
 シュネージュは、彼が気持ち悪くて仕方なかった。抱き上げられたときの手つきに、ふとしたときに感じる視線に、得体のしれないものを感じて恐れを抱いた。
 だからシュネージュは、使用人たちに自分から目を離さないように懇願した。

 あの日、ふと気づくと膝の上に乗せられたまま、二人きりにされていた。シュネージュの髪を撫でていた手が、身体を這っていた。恐怖で人形のように固まったシュネージュのスカートに、手が伸びていく。ふくらはぎを撫でまわし、更にその先に進もうとしたときに、扉が開いた。
 メイドが紅茶の替えを持ってきてくれたのだ。
 シュネージュは膝から飛び降りると、メイドとともに部屋から下がることができた。

 あの時の感謝と安堵の気持ちは、決して忘れられない。そして、とても気になったのだ。もしメイドが来なければ、わたしはどうなったのだろうと。もう一人のわたしがどんな目に遭うのか、気になると眠れなくなった。

 シュネージュに答えをくれたのは、新聞の記事だった。更に詳細を知りたくて、裁判の記録を閲覧する。被害者は心身に多大な苦痛を与えられ、人格や尊厳を著しく侵害されていた。好奇の目に晒され、恥辱を受け続ける。名誉の回復など望めない。知りえたのは氷山の一角で、表沙汰にならぬよう沈黙する被害者は沢山いるはずだ。
 『もう一人のわたし』にできることはないだろうか……。それを探りたくて、シュネージュは法律の勉学に取り組んだ。

「さぁ、始めよう」

 シュネージュは覚悟した。 
 妹のモニカは十歳になったばかりだ。抱きしめたときに触れる柔らかな頬を思い出す。
 コイシュハイト公爵の元に妹をやることはできない。どんな目に遭うか、シュネージュには手に取るように分かった。

 腕を引かれ、寝台に押し倒された。
 リネンに栗色の髪が広がった。
 顔が近づく。キスは嫌だと思わず顔を背けると、首筋に唇が落ちてきた。きつく吸われ、舌が這う。
 全身に鳥肌が立った。
 レオナールはくすりと笑った。

「下手な娼婦を買うより楽しめそうだ」

 シュネージュは、瞼をきつく閉じて、すべてに耐えた。
 乳房を揉み、恥部に手が伸び、脚が割り開かれる一連の作業を、気持ちを無にすることだけを考えて、時間が過ぎるのを待ち続けた。
 やがて、静寂が訪れた。ゆるゆると目を開き上体を起こすと、白いリネンに赤い血が散っているのが見えた。思わずシュネージュは汚れたシーツを引き抜いた。

「これは貰って帰るわ。置いておきたくないの」

 この屋敷に、彼の手の中に、情事の痕跡を残したくなかった。
 シーツを丸めて抱え込むシュネージュの背にレオナールの腕が伸びる。

「シーツ代だ」

 引き寄せられた彼女は、あっと言う間に、唇を塞がれた。勢いよくぶつかった唇はレオナールの歯に当たった。
 手で顎を押さえつけられ、引き結ばれた口を打ち破られる。強引に舌が割り込んできた。無遠慮に粘膜を擦り、舌を絡めて蹂躙していく。鉄錆の味が広がった。
 どれほど残酷な仕打ちを味わえばいいのだろう。シュネージュは、彼の胸板を思い切り叩いて、腕から逃れた。唾液で濡れた唇を手の甲で拭うと、唇の一部は裂けて血が出ていた。

 馬車を手配してもらい、屋敷の裏手で降りる。使用人用の勝手口から敷地内に入り、庭園を横切って玄関へ向かう。
 視線を感じて、顔を上げた。飾り窓から、母が見下ろしていた。シュネージュと視線がぶつかると、カーテンが勢いよく引かれた。

 シュネージュは衝撃を受け、凍り付いた。もう、母から愛してもらえない。汚れたものを見る目に、打ちひしがれた気持ちになった。この貢献に、この犠牲に、感謝しろとは言わないが拒絶しないで欲しかった。

 自室に戻ると、シュネージュはシーツを引き裂いた。布切れになったそれを鋏で切り、火箸で挟む。暖炉に少しづつ入れて、燃やし尽くす。燃え残しがないように、すべてを灰にする作業を終えると新しい一日を迎えていた。

 伯爵家は商家から多額の融資があり持ち直した。
 恐慌状態から脱し、ブランシュ伯爵家は平穏な生活を取り戻した。
 シュネージュの唇の裂傷は綺麗に治った。見た目だけは元通りになった。だが、もう何も知らなかった頃には戻れない。

 レオナールは二度と、シュネージュに接触することはなかった。シュネージュと寝たことを同級生に吹聴することなく、口外しないという約束も守った。
 同じ教室にいるのに、一言も言葉を交わすことなく、視線も交わることはない。シュネージュを綺麗に無視して、まるで存在しない者のように扱った。

 季節は巡る。単位を取得し、卒業を迎える。
 貴族の娘と商家の息子。二度と会うことはあるまい。そう思うとシュネージュは、やっと少しだけ息が吸えた気がした。
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