ネイビーブルーの恋~1/fゆらぎ~
第2章 安心感

第6話 やさしさ満点

「これ、どこのん?」
「オーストリアです。その顔は」
「あっ、わかった、ベートーヴェン? 違う? モーツァルト?」
 莉帆が職場へのお土産に選んだのは、オーストリア中で何度も目にしたモーツァルトクーゲルだ。ピスタチオのマジパン(ペースト状の菓子)をチョコレートでコーティングしたものがモーツァルトの顔が描かれた包装紙でラッピングされていて、スーパーでも大容量で売っているのでばらまき土産にちょうど良い。
 休みを終えて会社に戻った初日の朝、莉帆は同僚たちのテーブルにクーゲルを配りながら土産話をしていた。少しずつ生活リズムは戻ってきたけれど、変な時間に眠くなるので困る。
「赤坂、余ってる? もう一個ちょうだい」
「あ──はい」
「鈴木部長、甘いものは女性が先ですよぉ」
「ええやん、なぁ?」
 お菓子を欲しがっている鈴木は、近くの席に座る別部署の部長だ。どちらかと言えばオジサンではあるけれど、若く見える上にフレンドリーなので嫌っている人はいない。部下たちにちょっかいを出すことが多い割に仕事はできるので、男女ともに慕っている人が多い。
 多めに用意しているので好きなだけどうぞ、と言いながら莉帆は残りを全員が見えるところに置いた。部長と女性たちが笑っているのを聞きながら、莉帆は自分の席に戻った。
 莉帆が働いているのは小さな会社なので、ほとんど全員が同じフロアにいる。男女比は圧倒的に女性が少なく、年齢層は男女共に高い。
「赤坂さん、何か良いことあったん? 前より明るくなった気するんやけど」
 莉帆の向かいに座る女性の先輩が笑いながら聞いた。
「そう、ですか? 別に……何もないですよ」
「彼氏から逃げて引っ越したって言ってたよなぁ? 旅行で良い人おったん?」
「えっ、それは……」
「おったな? あとで昼休みに聞くわ」
「いや、別に何もないですって」
 と言っても聞いてもらえず、昼休みに先輩の女性たちからいろいろ聞かれた。莉帆は本当に何もないと主張したけれど、彼女たちの妄想はあらぬ方向へ向かってしまった。地元の人と仲良くなっただとか、その人の家に泊めてもらっただとか、妄想が止まらなくなったので適当に仕事に逃げた。
 本当は昨日、悠斗から連絡があった。勝平とはあまり休みが合わないけれどどうにか調整したようで、十月半ばの金曜の夜に四人で会うことになった。莉帆はまだ夜の一人歩きが不安なので、職場の近くで場所を選んでくれるらしい。
 莉帆は勝平と悠斗のメールアドレスとLINEの両方を聞いていたけれど、四人で予定を決めたいのでグループLINEを作った。
『なんなら私、いま仕事してないから、莉帆の会社の前で待っとこか?』
 そう提案してくれたのは佳織だ。
『うん。そうしてもらえたら助かる!』
『じゃあ、場所は俺と勝平で決めるけど……お洒落な店と居酒屋と、どっちが良い?』
 本音を言えば、お洒落な店に行ってみたいけれど、仕事のあとで疲れているので緊張はしたくない。仕事は私服でしているので、あまりお洒落をして出勤はできない。
『できれば居酒屋でお願いします』
 佳織より莉帆が先に答えが出たようで、そう送信すると佳織も〝良いね〟のスタンプを送ってきた。悠斗も了承したようでメッセージが来たけれど、既読は〝二〟のままで、なかなか〝三〟になりそうになかった。
『高梨さん……仕事中ですか?』
『今日は休みって聞いた気するけど……呼び出されたんかな?』
『遅くなりました、その通りです』
 ようやく既読が〝三〟になり、勝平から連絡が入った。仕事は休みにしていたけれど、職場が近いのでお土産を持っていくと手伝ってくれと頼まれてしまったらしい。
『金曜の夜に居酒屋で、了解!』
『莉帆のことは私が迎えに行くので、お店選びよろしくお願いします』
 莉帆がスマホの画面を見ていると、他の三人が心配してくれる様子が窺えた。まだ新しい恋をする気にはなれなかったけれど、佳織は謎の保証をしてくれているし悪い印象は全くなかったので、勝平と悠斗なら仲良くしても良いかなと思った。
 その結果、莉帆は笑顔の時間が増えてしまったらしい。
 しばらく先輩たちには勝手な妄想をさせておいたけれど、四人で会う日が近づいてから本当のことを話した。彼らは大阪市内で働いている公務員、としか情報がなかったけれど、それはまた先輩たちの勝手な妄想に火をつけてしまったらしい。
「良いやん、給料安定してるやん。……まだ付き合ってない、ってか? 頑張り!」
 連絡してくるのは気になっているからだ、という先輩たちの意見は理解できるけれど。
 三十路がすぐ近くに迫っているので、彼氏がいないという状況は確かに辛いけれど。

 勝平と悠斗が予約してくれたのは、莉帆の職場から近い居酒屋だった。居酒屋──と言っても、少しお洒落な、個室があって落ち着いている店だ。予定通り佳織が莉帆を迎えに来てくれて、店は駅の向こう側だった。
「あんまり職場に近すぎたら、知り合いに会ったりして嫌かなぁと思って」
 莉帆にはとてもありがたい配慮だった。二人と会うのは今日だと知った先輩たちは、店まで一緒に行こうか、と笑いながら話していた。実際には莉帆は一人で職場を出たけれど、そのギリギリまで妄想は続いていた。
 とりあえず乾杯をしてから、改めて旅の思い出話をした。
 悠斗と勝平は、大学でドイツ語を学んでいたらしい。
「あっ、だからあんまり困ってなかったんですね」
「かじったくらいやから、全部わかるわけではなかったけど……。若い人なら英語も通じたし」
「ドイツ語って難しいですよね? フランス語とかイタリア語のほうがマシって聞いたから大学でそっち選んだのに、それでも大変でしたよ」
「莉帆はまず、英語やな」
 大学の語学の試験の結果は散々だったと嘆く莉帆の隣で佳織が笑った。莉帆はこれから英語が必要になる生活を予定していないけれど、海外旅行をするか外国人と関わらない限り話す機会はないけれど、挨拶くらいは簡単にできるようになりたいなと思いながら年月だけが過ぎてしまっている。
「まぁ……そんなに深く考えんでも良いんちゃう? わかる人に助けてもらったら」
 悠斗が助けてくれたけれど、笑っているのは佳織と変わらない。
「大丈夫、日本語勉強してから来る外国人も多いから」
 同じく勝平も、フォローのようでフォローになっていない。
「そういえば莉帆、前に電車で外国人に話しかけられたって言ってたよなぁ?」
「あ──うん。たぶんイタリアあたりの男の人」
 空港に向かう電車に乗っていたとき、一駅ごとに〝ここは空港駅か?〟と聞いて来られたので、空港は〝ラストステーション(最後の駅です)〟と教えたのをきっかけに目をつけられたらしい。乗客が減ってから隣に座りに来て、名前や家族、仕事について聞かれた。彼は簡単な英語で聞いてくれたので全て聞き取れたけれど、返事を英語には変換できなかった。
「その人、日本に来た最後の思い出に喋っとこうと思ったんやろなぁ」
「たぶん……。わかる単語で嘘つこうかとも思ったけど、それも思い浮かばんかったわ……。事務してる、って何て言うん? デスクワーク?」
「いや──オフィスワークのほうが良いんちゃうかな」
 具体的にどんな事務だ、と聞かれてもそれも答えられなかっただろうし、その頃には莉帆が降りる駅が近付いて来ていた。彼には申し訳なかったけれど、会話を中途半端に終わらせるしか莉帆にはできなかった。
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