888字でゆるいミステリー
第十七話 「ポーカーフェイスソナタ」
「まるで能面ね! 伝ってこない!」
私が暮らす家、地下防音練習室。
叩かれた楽譜が吹っ飛ぶ。
スクリャービンのピアノソナタ第9番が散らばった。
「先生……もう許してください……」
「それで勝てると思っているの?
ポーカーフェイスの音ではだめよ!」
私のピアノは、能面、無表情、ポーカーフェイス、感動がない、無感情、鉄仮面、気持ちがない、心がない、不感症、感情がない、表情がない。
厳しい指導に必死に食らいついて来たけれど、言われ続けるうちに、自分の感情がもうわからなくなっていた。
音楽エリート一家に生まれ、親は音楽家、親族も皆音楽関係の仕事をしている。
お陰で先生の最高のレッスンを受けられる。
でも、プレッシャーで私は押しつぶされそうだった。
楽譜を拾うためにしゃがんだら、もう立ち上がれなかった。
「もうわかりません、わからないんです……」
「わかるまでやるの! あなたならできるのよ」
「できないんです。わからないんです、もう本当に……」
「できるわ、自分を開放するの! 恐れずに本音を、心を、感情をさらけ出して!」
開放し、さらけ出す……。
「さあ、やるのよ!」
熱を帯びた先生の目に引き寄せられ、誘われるがままに手を伸ばした。
・・・
壇上のスポットライト。
信じられない。
第1位に呼ばれたのは、私だった。
念願だった国際コンクール。
全てが報われた。
先生を信じてきてよかった。
この場に来れなかった先生に、帰ったら一番に会いに行こう。
・・・
いつもの地下練習室に先生がいる。
「先生、私やりました」
ピアノに持たれかかった先生は、感情のないポーカーフェイスで迎えてくれた。
「もう少し喜んでくれてもいいんじゃないですか?」
先生の背後を回り、ピアノの椅子に座る。
「先生の言う通り、自分を開放してさらけ出すって本当に大切なんですね。
この曲で本当によくわかりました」
来れなかった先生の為に、スクリャービンのピアノソナタ第9番『黒ミサ』を弾いた。
終わる同時に、硬直した先生がバランスを崩し、カカシのようにバタンと倒れた。
それでもポーカーフェイスは変わらない。
誓ってもいい。
先生のその顔。
この曲を弾く時は、いつも思い出しますからね……。