奮闘記などと呼ばない (王道外れた異世界転生)
「セシル・ヘルバートです。この度は、遠路遥々来ていただきまして、ありがとうございます」
「い、いえ……。光栄の、極みで、ございます……」

 そして、床に頭をこすりつけたまま顔さえも見えない青年は、平に、平に……の態度が変わらないままだ。

 報告書によると、この若い青年は平民出の学者だった。それでも、王宮大学を卒業した、れっきとした、地質学者である。今は、大学の学部で事務などをしているらしいが。

 貴族制のこの世界。貴族の前で顔を上げることは、許されていない。許可なく喋ることだって、許されていない。

 その知識は理解できたが、『セシル』 自身が、そんな悪習を奨励するか、と言ったら、絶対に有り得ない。

 自ら望んでもいないのに、赤の他人に向かって頭をこすりつける勢いで礼を取らなければならないなど、自身のプライドも、尊厳も、その意義も、全てが全て、踏みにじられてしまっているように思えてならない。

 人というものは、心から尊敬できたり、感動したり、そう言った素直な気持ちが上がれば、自然、頭が垂れるものなのだ。
 無理矢理、横柄に、押し付ける行為などではない。

「頭を上げてください。顔を見えずでは、話をすることもできません」

 『セシル』 にそう言われても、青年は畏まったままだ。

 『セシル』 は胸内で嫌そうに溜息をこぼし、
「顔を上げなさい」
「は、はいっ」

 その言いつけ一言で、ピシッと、青年が垂直に起き上がった。

 例え、これが貴族制の“常識”や“普通”だろうと、『セシル』 はそんな悪習を認めない。認める気はない。

 その原則を忘れないようにしないと、セシルだって――きっと、すぐに、この世界の貴族達のように、ただ、平民に、なりふり構わず命令する癖がついてしまうことだろう。
 いつでも、どこでも、言いつける癖がついてしまうことだろう。


(それだけは、なりたくないわね)


 貴族の立場に慣れ親しんでしまったら、本当の意味での協力や信頼は築けない。そう言った、強い土台がなければ、すぐに足元をすくわれ、裏切りや、策略で、引きずり降ろされてしまうことだろう。

 貴族世界は、弱肉強食だ。隙は見せられない。作れない。

 だから、『セシル』 には、信頼できる味方を増やすことが最重要課題なのだ。まず、一人の「人」としての関係作りをしなければ、必ず、相手にした仕打ちは、自分に返って来るものなのだ。

 貴族の立場をひけらかす為に、セシルがいるのではない。

 「人」 としての信頼関係を作ることが、何よりも大切なのだ。

「今日は、よく来てくれました。これから、仕事の関係で、お互いに、しばらくお付き合いをすることになりますから、よく聞いてくださいね。私は、無闇矢鱈(むやみやたら)に頭を下げられるのは好きではありません」
「……え゛……?!」

 セシルの一言が全く理解できていないかのように、フェンリル・ポウズは固まってしまっている。

「礼儀正しくあること。他人に対し礼を取る姿勢。それは、他人に接することで、とても大切なことだと思います。だからと言って、強制的に頭を下げさせる行為は、好きではありません。例え、それが習慣であろうと、私の前でそれをする必要はありません。挨拶の代わりとしてお辞儀をするのなら、それはそれで構いませんが、それ以外では、床に頭をこすりつけないでくださいね」

 青年のそのつぶらな瞳が、これ以上ないというくらい大きく見開かれて、硬直している。目の下に手を出したなら、ポロっと、目玉が落ちてきそうなほど、極限に、その瞳が見開かれてしまっている。

「礼儀や礼節は大切です。そのような行為や態度は、自分の意志や考え、感情から出て来るものでしょうから、そうでない行為はすぐに分ります」

 ただの条件反射で頭を垂れるのなら、その行為自体、全く意味がこもっていないことになる。心もこもっていないことになる。

 それなら、何の為に、そんな無駄な行為をする必要があるのか?

 貴族の価値と立場を再確認させる為の悪習であるのなら、『セシル』 は貴族としての立場を、わざわざ、赤の他人に認めてもらう必要などない。

「二度は繰り返しませんので、覚えおいてくださいね?」
「……は、はいっ……。わかり、ました……」

 少し気の弱そうな青年だが、真面目そうな好青年である。
 今回の人材は当たったようである。

「では、契約内容の確認と、仕事の依頼を確認してくださいね?」




「お嬢様」
「どうしたの、オスマンド?」

 オスマンドは、ヘルバート伯爵家に仕える優秀な執事だ。
 本来なら、伯爵家の仕事もあり、執事としての責任もあるのに、『セシル』 を心配したリチャードソンに頼まれ、今回、コトレアに一緒に付き添って来たのだ。

 あまりに心配し過ぎて、胃潰瘍(いかいよう)になりそうな勢いの父を前に、さすがに、『セシル』 も、「執事はいりません」 などと、断れるわけもない。

 今頃、優秀な執事であるオスマンドが伯爵家にいなくて、伯爵家の仕事だって、てんやわんやなことだろうに。

 ヘルバート伯爵家の心配よりも、娘の心配が優先して、最終的に、今回、オスマンドが『セシル』に同行してきたのだ。

「気にしないで、心配事があるのなら、そのまま口にしていいのよ。そう話したでしょう?」
「はい、そう、お聞きしております」

「なら?」
「では、非礼ながら、申し上げさせていただきますが……。あのように、平民の前で、お嬢様が丁寧に接する必要はございません。あの者は、伯爵家に雇われた者なのですから」

「そういう態度を見せると、足元を見られるから?」
「はい。お嬢様は、ヘルバート伯爵家のご令嬢なのです。平民が頭を下げるのは、当然のことです」

「そういう悪習が、貴族制では“普通”なのでしょうね。でも、私は、自分が丁寧な態度を取ったからと言って、他人に足元を見られたり、舐められたりするとは思っていません。他人に接する態度というものは、自分自身の姿を表すものでしょう? 威張り散らしたり、傲慢だったり、そう言った態度は、すぐに自分に降りかかって来るものです」

 オスマンドの表情は、『セシル』の話していることを、全く受け入れていない様子だ。

「私はね、貴族の令嬢だけれど、私は、これからもきっと、どこかかしかで、見下されたり、足元を見られたり、(さげす)まされたりする機会があると思うの」
「まさかっ! そのような非礼など、許されません」

 本気で憤慨しそうなオスマンドを見上げながら、セシルは軽く首を振ってみせる。

「いいえ、必ず、そういった場面が出て来るでしょう。子供だから。女だから。ただの伯爵家の令嬢のくせに。そういった差別待遇は、どこにでも存在するものなのよ。理由なんて、どうでもいいの。ただ、自分と他人を区別する時に、一番安全な方法が、差別意識なのだから。他人とは違う。立場が違う。そう言った、区別や区切りが、無意識で形成されてしまうものなの」

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