天妃物語〜本編後番外編・帰ってきた天妃が天帝に愛されすぎだと後宮の下女の噂話がはかどりすぎる〜
「あと少しですよ。行きましょうか」

 鶯が立ち上がると萌黄が少し心配そうな顔になる。
 今からこの渓流を水面から出ている岩を足場にして渡るのだ。水深も浅く、渓流の幅もそれほど広くないので子どもでも渡り切れるだろう。しかし足場の岩から滑ってしまったら全身びしょ濡れは免れない。

「鶯、滑らないように気を付けてね」
「分かっていますよ。でも私よりあなたです。あなたは鈍臭(どんくさ)いところがあるんですから、充分気を付けてくださいね。一歩一歩慎重に進むのです。いいですね?」

 天妃になっても鶯の生真面目な口煩(くちうるさ)さは健在である。
 萌黄は思わず小さく笑った。

「分かってる。ちゃんと気を付けるから」

 萌黄がそう返事をすると鶯と二人で渡ろうとする。
 だがその前に。

「待て、俺が先に行こう。お前は後からついてくるといい」
「いいんですか?」
「ああ、気を付けてくれ」

 黒緋は少し心配そうに言った。
 鶯は萌黄を鈍臭(どんくさ)いと言うが、黒緋からすれば鶯も心配だ。
 黒緋は青藍を片腕で抱っこしたまま危うげなく岩場を飛んで進んでいく。そして真ん中まで来たあたりで鶯を振り返って手を差しだす。

「こっちだ。手を」

 貸せ、と続くはずの言葉が続かなかった。
 振り返るとそこにいたのはきょとんとした顔の紫紺。
 見れば鶯は萌黄と手を取りあって別の岩場から渡っている。キャッキャッとはしゃぎながら足場を選んでいる二人はとても楽しそうだ。……できれば仲間に入れてほしいものだが。

「ちちうえ、オレとてをつなぎたいのか?」

 紫紺が不思議そうな顔で見上げ、「しかたないな……」と黒緋の手を握る。
 ぎゅっ、ぎゅっ。

「うれしいか?」
「……嬉しいよ。ありがとう」
「どういたしまして」

 紫紺も生真面目に返した。こういうところは鶯に似ているのだ。
 そんな二人のやり取りに、鶯が離れた足場から手を振る。

「大丈夫ですか? 紫紺、上手に渡れてますか?」
「だいじょうぶー! ちちうえが、オレとてをつなぎたいんだって!」
「ふふふ、仲良しですね」

 そう言って鶯は楽しそうに笑った。
 黒緋としては想定外のことが起こっているのだが、鶯が笑うとなにも言えなくなる。惚れた弱みだな……、と内心苦笑した。
 こうして全員無事に渓流を渡りきった。
 一行はまた山道を登り、少し歩いてようやく巨大な千年杉に辿りついた。
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