身代わりで嫁いだお相手は女嫌いの商人貴族でした
「アメリア」

 お披露目会の5日ほど前に、アウグストはアメリアの部屋に訪れた。

「アウグスト? 何か?」

 見れば、彼女はあまり得意ではない刺繍をしているようだった。アウグストの目から見ても、正直なところ「出来が良い」とは言えない拙いものだったが、彼はそれを馬鹿にしたりしない。

 アメリアは、少し時間を置いてから「あっ」と、手元の刺繍を隠そうとした。が、アウグストは

「大丈夫だ」

と小さく笑う。すると、アメリアはやはり刺繍をそっと隠す。

「それでも、その、恥ずかしいです……わたし、本当に下手くそで……」

「最初は誰でもそうだろう。君が頑張っていることは知っている」

 アメリアにとって、その言葉がどれほど嬉しいことだったのかをアウグストはよく理解をしていない。ただ、本当にそう思ったからそう言っただけだ。だが、アメリアは頬を紅潮させて

「ありがとうございます」

と言いながら、かすかに微笑んだ。

(ああ、たったこれだけのことで、ようやく笑ったな)

 彼女は、未だにほとんど笑みを見せない。だが、本当に時折見せる微笑みは少しぎこちない柔らさがある。まるで春が来たばかりの頃、つぼみが膨らんで花開く寸前を思わせる。それほど、彼女は満面の笑みを決して見せない。だが、その少しぎこちなさ、少し申し訳なさそうに微笑む様子も悪くないとアウグストは思う。

「あの、それで、何か……?」

「ああ。君に相談があって……」

「わたしに?」

「お披露目会の日、君用にドリンクを用意したいのだが、君は何が一番好きなんだ?」

「えっ……」

 アウグストの言葉にアメリアは驚きの表情を見せる。

「わたしが、一番好きな……?」

「そうだ。見たところ、あまり君は酒が得意ではなさそうだが。果実水ならなんでもいいのか? それとも……」

 しばらくアメリアは「ううん」と考え込む。自分が好きなものを選ぶだけで、そんな風に考えなければいけないとは、一体どういうことなのか。そうアウグストが聞こうとすると、彼女は恥ずかしそうに声をあげる。

「あっ、あの……ごめんなさい。実は、お名前がよくわからないのです。時々食卓にあがる……赤黒い、甘酸っぱい果実水が……」

「コケモモの果実水だな。わかった」

「あれが、コケモモの果実水なのですね」

「ああ。では、それを用意させよう」

「ありがとうございます。嬉しいです」

 また、かすかな笑み。アウグストは「ふわりと微笑むのだな」……そう言葉にしようと思ったが、寸でのところそれを抑えた。そんな言葉を聞かせたところで何になるというのか。彼女は困るだけだろう。ただの自分の感想だ。

「わかった。あと、今晩わたしは外泊をするので、夜は戻らない」

「あっ……」

 一瞬アメリアは何かを言いたそうに口を半開きにしたが、すぐに一度唇を引き結び、返事をする。

「はい。かしこまりました」

 それは、夜の庭園にいってもアウグストは来ない、という意味だ。アメリアは小声で頷いた。

「それから、その刺繍、出来たらわたしに見せるがいい」

「えっ!?」

「ただ漠然と縫っているより、誰かに見せる目的があった方が熱も入るだろう。なに、わたしは刺繍のことなぞからきしわからぬし、気にせずに縫えばいい」

 言っていることに若干の矛盾はあったが、アウグストはそう言って「ではな」と部屋を退出した。その背に、アメリアが「でも!」と声をかけたが、彼は振り返らなかった。それは、意地悪などではなく、実際彼には時間がなかったからだ。

 通路を歩きながら、最後に「でも」と言っていた彼女の声音を思い出す。情けない。情けない声だが、それが少し可愛いと思う。

(わたしも彼女に相当慣れて来たな……)

 慣れて来た、なんてものではない。可愛いと思っている時点で、きっとディルクやリーゼには「好きでいらっしゃるのでは?」と言われてしまう案件だ。だが、彼は自身に対して強い警鐘を鳴らす。

 どうにも、過去のことが忘れられない。女性のことは信じられない。なんといってもアメリアは身代わりとなってここに来たわけだし……

(だが、それはお互い様だ。こちらも、金を積んだだけの間柄だしな……)

 たったそれだけのことが「たった」ではなく、互いの心に何かしらのひっかかりを生んでいる。それをアウグストはわかっていたが、事実は事実で覆らない。

 それでも、彼はもう少しでそれを乗り越えられるのでは、と淡い期待を心の中に抱いていた。本当に愛していなくとも、形だけでも、それでも、もしかしたら自分たちは案外うまくやっていけるのではないか……そんな、とても曖昧な願いが、彼の心に生まれる。

(お披露目会が終わったら……数日どうにか仕事を休んで、領地内を見せて回ろうか……)

 自分が彼女を連れて出かける。そこまで気持ちが高まっていることを、彼は自覚せずにあれこれと考えていたのだった。
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