まどろみ3秒前
「記憶も言葉も思い出も、この世界から消えてなくなったって、俺は、それでもいい」
その瞬間、強かった雨が優しく聞こえた。この雨の音は彼にも聞こえているのだろうか。
スローモーションになった雨が、一粒一粒輝いて落ちていくようにも見える。
「ずっと待ってたから」
「…ずっと?」
「ん。それで会えた。なーんにも怖くない。何も、もう何も。大丈夫大丈夫、大丈夫」
自分に言い聞かせるような彼の声の語尾は、震えていた。涙を我慢しているようで、まるで、怯える子猫のように見えた。
大丈夫の嘘が、いちばん、辛いはずなのにな。なんて、他人事だった。
だって、私は、彼を知らないのだから。
髪も、目も鼻も口も、何も思い出せない。
「翠さんは、俺の、大好きな人」
ズキン、その痛みを感じたときだった。
夢で見た、水の衝撃のようなものがした。
赤い傘、落ちた黒い傘、雨の音、四つ葉のクローバー、優しい笑い方、誰かの声、茶色い瞳、眠れない彼と、眠りすぎる…私……