私と彼の溺愛練習帳
 駅前のベンチで、雪音はぼんやり座っていた。
 昨夜は急き立てられるように出て来たが、先のことはなにも考えられなかった。
 女性専用フロアのあるカプセルホテルに泊まった。

 今朝は仕事場に退職と有給の申請をしてきた。
 退職は二週間前に言わないといけないが、有休もそれくらいたまっていた。店長が出勤してきたらぎゃんぎゃん吠えるかもしれないが、もう知ったことではない。

「雪音……」
 聞きなれた声がした。
 顔をあげると、惣太がいた。
 こざっぱりスーツを着て、いつも通りに優しそうだった。

「仕事、休みなの?」
「やめました」
「……大丈夫?」
 雪音の暗い声に、惣太が気遣う。
「放っておいてください」
「そういうわけにはいかないよ。待ってて」
 彼は自販機に行き、温かいカフェオレを二本買って来た。

「甘いカフェオレ。好きだったよね」
 ココアの次に好きな飲み物だ。
 自販機にも喫茶店にもココアがないことが多い。彼と一緒にいるときはカフェオレを飲むことが多かった。必然、彼は雪音の好きな飲み物をカフェオレだと思うようになっていた。

「ありがとう」
 受け取った缶は熱いくらいで、すぐには開封できなかった。
 惣太は平気そうにぱきっと開けて一口飲む。
「俺は結局、彼女にふられたよ」
 雪音が彼を見ると、困ったように笑っていた。
「わがままがひどくてケンカになって」
 惣太がケンカなんて、と驚いた。自分とは一度もケンカをしなかった。

「彼氏と住んでるって平田さんから聞いたけど……。その荷物、出て来たの?」
 迷ってから、うなずいた。美和の口の軽さをちょっと恨んだ。
「行くあて、ある?」
 黙って首を振った。

 惣太は困ったように耳の後ろを掻いた。
「……神奈川の親戚の工場で人手がないって言ってたんだ。寮もある。学生の頃バイトに行ったことあるけど、みんないい人なんだ。そこに行ってみない?」
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