私と彼の溺愛練習帳
 雪音は声も出なかった。
 病室の入口をはさんで、ただ閃理を見つめる。
 閃理は無言で左手を雪音の頭に手を伸ばし、背に右手を回し、自分に押し付けるように雪音を抱きしめた。

「何するの!」
「だって、雪音さんがいる」
 閃理は心の底からうれしそうに言い、ぎゅっと力を込めた。

「雪音?」
 心配そうな母の声がする。
「ちょっと、なんていうか、すぐ戻るから」
 雪音は閃理を押して病室を出た。


 
 病院の庭には桜の木が何本もあった。もう花芽がついているのが見えた。
 花壇には水仙が咲き誇っていた。春が近いのだな、と薄い黄色の花を見て思った。隅に、ボランティアが管理している、という説明書きがあった。
 花壇の前にベンチがあったから、二人はそこに座った。

「どうしてここに?」
「探したから」
 雪音の手を離さず閃理は言う。病室からずっと、手を握り続けていた。

「逃げないから、離して」
「嫌だ」
 閃理はさらに手に力を込める。
「帰ってくるって言ったのに、帰ってきてくれなかった」
 雪音はむっとした。
「あなたが先に帰って来なかったのよ」
 閃理はしょんぼりとうつむいた。

「ごめん」
 (こう)垂れた姿に、雪音は動揺した。
「私も、ごめん」
 ぎゅっと手を握り返す。
「いろいろあって、混乱して」
 あのときの自分は、恐怖のような怒りのような、なんとも言えない感情が渦巻いて、衝動で行動していた。
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