私と彼の溺愛練習帳
「先輩のおかげで残業が無駄に伸びずに済みました。ありがとうございます」
「それほどのことじゃないわ。でも、ありがとう」
 自分のやったことは無駄ではなかった。見ていてくれる人がちゃんといる。
 うれしくて、ほっとした。



 帰り道は、一人で歩いた。
 伶旺を撃退できていたからもうお迎えはない。
 スマホを取り出し、メッセージを送る。
 遅くなったけど、これから帰るね。
 返事はすぐに届いた。

 心配だから迎えに行くよ。
 子供じゃないんだから大丈夫。
 雪音はそう返した。ふと見ると電池の残量が少なかった。

 帰るだけだから大丈夫。そう思ってスマホをバッグに戻す。
 怒鳴られた不快さと少しは人の役に立てたという喜びで、胸はどきどきしていた。
 だからだろうか、注意が散漫になっていた。
 だから、気づくのが遅れた。

「雪音」
 がっと腕を掴まれた。
 驚いて振り返ると、伶旺がいた。にやにやと笑いを浮かべている。ファーコートのせいか、一回り大きく見えて怖かった。
 とっさに腕を振り払って駆け出した。

「待てよ!」
 追って来る伶旺から必死で逃げる。
 走りながらスマホを取り出し、閃理に電話をかける。彼はすぐに出た。

「雪音さん?」
「あいつが、あいつが……!」
 うまく言葉に出来なかった。だが、それで通じた。
「すぐに行く。今どこ?」
「今……」
 気がつくと、公園に逃げ込んでいた。
 しげみに隠れてうずくまり、公園の名前を告げる。

「そのまま隠れていて。通話はこのままにして」
「わかった。でも、電池が……」
 言いかけたところで、通話が切れた。
 電池が尽きた。充電するものはなにもない。
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